入江ゆきか

雪のオールドノース橋(米国ボストン市郊外)

 

入江ゆきか

随筆春秋「会員の部屋」

 


おんぼろ留学生日記


 

半年間、私のテーブルはダンボール箱だった。念願のボストン大学の留学先で、小さなアパートを借りることから始まった。家具は一切ついていなかった。
私は、テレビを買ったダンボール箱の上で、素うどんを食べたり、できあいのチキンライスなどを食べた。親の仕送りはあったが、次々と書籍を買うために、とにかく貧乏だった。むろんそれを承知でアメリカに渡った。
毎日が、勉強漬け。遊ぶ暇など一切ない。留学生が私1人だっただけに、孤独感にいつもさいなまれていた。兄が日本から送ってくれた簡単レシピの本があったが、料理どころではないくらい、膨大な宿題がダンボール箱の上に積み重なっていた。
私は、歴史学科に在籍し、アメリカの第28代大統領ウッドロー・ウィルソンの対フィリピン政策を執筆していた。しかし、書けども書けどもやり直しとされ、教授に突き返された。膨大な資料と書籍にくまなく目を通して「これなら大丈夫」と自信を持って提出しても、「君の書く英語はひどい」と、英語力そのものの力量のなさを指摘されて、読んでもらえなかった。そのころ私はよく泣いた。ベッドに横になると涙がとめどなくあふれてきた。
最初の1年は、とにかくアメリカ人の話す英語が分からず、宿題を出されても何をすればよいのか聞き取れず、そのつど、教授に質問をした。

ボストン大学 マッシュ・チャペル

私は汚れ切ったダンボール箱ではなく、ちゃんとしたテーブルでごはんが食べたいなあと思った。引っ越しをした人が置いていった家具が地下にあったが、古いがまだ使えるものばかりであった。しかし、テーブルだけは見つからなかった。ダンボール箱には、汁が飛んだ跡や汚れが目立ち、いつ壊れてもおかしくない状態だった。
ある日、向かい側の公園でフリーマーケットが開かれた。「よし、テーブルがあるかもしれない」と勢いよく家を飛び出した。
目の前にある光景はすばらしかった。椅子やテーブル、チェストにベッドカバー、ナイトテーブル、食器なども並んでいた。
木目調の手ごろなサイズのテーブルが目についた。
「いくらですか? 家まで運んでもらえませんか?」中年の男性に尋ねた。
「20ドルだよ。家にも運んであげる。心配しないで。どれもいいものばかりだよ」
私は、テーブルの他に、マットレス、食器、鍋、フライパンを買って、その男性に「まとめて買うから値引きして」とお願いをした。こういう性格 は、入江家の中でもなかなかいない。
中年男性は、他の男性たちも呼んで、テーブルなどを私の部屋まで運んでくれた。
私は、その足で、喜び勇んでスーパーへと赴いた。
その晩は、得意のパスタをこしらえた。新鮮な野菜も手に入れて、フリーマーケットで買った花柄の愛らしい食器に盛ってそれを食べた。アパート全体が華やいだ感じになった。使っていたダンボール箱は、地下のごみ捨て場に置いてきた。
手作りごはんが楽しくなってきたころ、修士論文の締め切りが迫っていた。一方、大家の一存で、午後10時になったら節約のため建物全体のヒーターを止めることになった。
私は毛布で全身をグルグルまきにし、パソコンに向かって論文の作業をした。ボストンの冬は極寒だった。私のような車を持っていない貧乏学生は、吹雪が続く中を徒歩で学校に通うしかなかった。

ボストンの街並み

私は、朝方、ついに論文を書き終えた。やるべきことはやった。達成感と不安とが複雑にからみあって心の中を一杯にした。
教授のところに持っていき、お願いをすると、電話中のところを保留にして、「期待しているよ」と言ってくれた。初めてみた教授のほほえみだった。
1週間後、歴史学科のアドミッションオフィスに足を運んだ。学生のために様々な書類上の手続きなどを行ってくれるところだ。論文の結果が発表される日だ。オフィスの太った男性が、私の顔を見るなり声高に告げた。
「君、合格したよ。修士号取得、おめでとう」

私は、内心ガッツポーズを決めた。喜びのハグをして、ほかの学生たちともワイワイ戯れて、成功を分かち合った――。

しかし、私は致命的なドジをした。卒業証明書の発行申請を忘れていたのだ。2002年5月に卒業し帰国したのだが、証明書が届いたのは、その1年後の2003年5月になった。しかも、空輸便で日本に届いたそれは、筒には穴があき、中の証明書はクシャクシャになっていた。私は、啞然あぜんとした。しかし、すぐに開き直った。おんぼろだっていいじゃないか。合格は合格だ。これは努力の証の勲章だと思い、リビングに飾った。この破れたおんぼろ卒業証明書を見ると、ふとテーブル代わりのダンボール箱がいかに役立ったかを思い出す。見た目ではない。中身なのだ。

随筆春秋事務局

正倉一文 作成