随筆春秋の30年

『いつでも青春』

――とっしゃん四十九歳からの旅立ち――

堀川とし著

力富書房1984/12/1発売

帯封には直木賞作家・佐藤愛子の推薦の辞が――

堀川としの写真


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堀川とし自伝『いつでも青春』に感じたご縁

 

 堀川としは昭和34年に上京する。住まいは中野区の鍋屋横丁の朝日市場の2階であった。一方、僕は昭和33年生まれで、小学1年生のときに、中野区の丸山から中野富士見町に越した。この鍋屋横丁のすぐ近くである。

 地下鉄中野富士見町駅もすぐ目の前で、父が勤務していた電々公社の官舎に親子三人で暮らした。官舎前のバス通りを北へ向かうと上り坂になっていて、坂の上の一帯が、鍋屋横丁という商店街である。通称なべよこと呼ばれていて、東京三大横丁のひとつに数えられる。僕と母も毎日のようにこのなべよこに買い物に出かけた。

 としが美容室の1号店を出した杉並区和田というのも、官舎から歩いていける距離で、僕自身にも馴染のある場所であった。そこには、僕が通っていた音楽教室もあったからである。

 小学6年生になる少し前、僕は練馬に越した。中学を卒業すると、本当は都立西高校を希望していたのだが、都の学校群制度でコンビになっていた高校に振り分けられ、僕は泣く泣く、かつては女学校であった都立富士高校に入学した。場所は、中野富士見町の地下鉄駅のすぐ裏手である。奇しくも、以前暮らしていた官舎の近くに戻ってきた格好となった。その高校で僕には初めて彼女ができるのだが、彼女の自宅がなべよこ商店街にあった。父親がそこで歯科医院を開業していた。

 堀川としは49歳で上京した。著書『いつでも青春』に「とっしゃん四十九歳からの旅立ち」という副題がついている所以ゆえんである。

 彼女の旅立ちは、地理的、時間的に、僕の小学校時代とオーバーラップしているかもしれない。僕と堀川としが、なべよこの朝日市場の前ですれ違っていたとしても、何の不思議もない。

 堀川としが開いた美容室のスター荻原宗(美容師)であるが、本名を荻原宗策というそうである。とし一家が群馬にいたころ、通っている高校が遠いので、その近くに住む堀川家の居候にいそうろうなったのが、つき合いのはじまりであった。「書生」という表現が当たっていると思う。食と住を保証され、そこから学校に通学し、時間のあるときには、その家の稼業の手伝いもする、というスタイルであった。

 宗策少年はスラッとした細身の好男子で、物覚えもよく、その上ファッションにも敏感で、美容師という仕事には向いていたようである。

 結局、堀川としは、その荻原宗を看板とした美容室を全国に19店舗展開する実業家となった。

 著書は、その堀川としのエッセイを時系列に並べた章もあり、およそ200ページの単行本となっている。どこから読んでも意味が通じ、やがてすべてを読み終える、というつき合い方ができる。僕のように落ち着きのない人間には、まことにありがたい編集となっている。

 著書の中にはとても素晴らしい言葉が掲載されていた。堀川としの生き様そのものである。

 

 青春とは人生のある時期をさしていうのではなく

 心の様相をいうのだ

 すぐれた想像力

 燃ゆる情熱

 怯懦をきょうだしりぞける勇猛心

 安易をふりすてる冒険心

 こういう様相を青春というのだ

 年を重ねただけで人は老いない

 理想を失うときに初めて老いがくる

 歳月は皮膚のしわを増すが

 情熱を失うときに精神はしぼむ

  (原作 サミュエル・ウルマン|訳詞 岡田義夫)

 

2023.01.19

事務局  正倉一文まさくらいちぶん

 

後記

 

美容業界と純文学

 

堀川とし、吉行あぐり山崎富栄とみえの3人は、昭和期に日本の美容業界に貢献した人物である。

堀川としは、日本にカットという技術を定着させた。昭和35年以降の話である。それまでカットは、それだけで金の取れる手技としては、確立されていなかった※1パーマネントなどメインの仕事の合間にするものとされていたのである。

吉行あぐりと山崎富栄は、戦前から戦後にかけて、欧米から輸入したパーマネント技術の普及に貢献した。

吉行あぐりは、アメリカの美容学校を卒業した山野千枝子※2を介して技術を学び、昭和27年、戦争で閉店した店を引き継いで「吉行あぐり美容室」を再開させ、その腕をふるった。小説家、吉行エイスケの妻であり――、芥川賞作家、吉行淳之介の母親である。

山崎富栄は、太宰治の恋人のひとりであった。吉行あぐりと同様、美容師としてパーマネントの店に立ち、腕をふるった。最後にはその太宰と玉川上水で昭和23年、入水自じゅすい 殺を遂げる。父親の山崎晴弘は、大正2年、本郷、お茶の水界隈にかいわい 、東京婦人美髪びはつ美容学校(通称:お茶の水美容学校)を創立している。東京では当時、唯一ともいえる美容学校であった。

――純文学と美容業界には何か関係性でもあるのだろうか。

明治、大正期は、日本では女性の頭髪といえば、女髪結おんなかみゆいであった。徒弟とてい制度で腕を磨き、日本髪を結う職人である。それが、昭和10年ごろには、女性が洋髪の美容師として、自立した職業婦人を目指す時代へと、移り変わっていた※3

美容師として自立を目指す女性と唯我独尊ゆいがどくそんの道を行く純文学の精神性――ひとつの構図が、見え隠れする。

 

2023.01.23

事務局  正倉一文まさくらいちぶん

 

【脚注】

※1 堀川としの美容室の看板、荻原宗であるが、昭和44年にはヨーロッパに渡り、英国のヴィダル・サスーンから直接、カットの手技を伝授されている。髪の毛を人差し指と中指の間に引き出してから切る『サスーンカット』は、現在では理容師美容師の基礎的な技術となっている。( 参照した資料|Wikipedia:ヴィダル・サスーン

※2 美容家 山野愛子の先輩にあたる。血縁関係はない。山野愛子は、若いころ、すでに成功していた山野千枝子を目標としていた。( 参照した資料|歴史が眠る多磨霊園>著名人リスト>や行>山野千枝子

※3 < 倉田研一|戦前期の学校における女髪結(おんなかみゆい)及び美容師の養成について > に、「日本髪・束髪から洋髪への移行期を昭和期最初の10年間であるとし、この間に徒弟制度から講習所や学校への移行が進んだ――」との記述がある。

 

 

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