📍近藤 健

背後の武士が介錯人かいしゃくにん

  

他生の縁 ~赤穂義士切腹の座にて~

 

 東京出張の帰り道。飛行機の時間があったので、高輪の泉岳寺に立ち寄ってみた。昨年(二〇一二)十月のことである。

 泉岳寺は、元禄赤穂事件ゆかりの寺である。赤穂藩主浅野内匠頭たくみのかみと大石内蔵助くらのすけ以下四十七士の墓がある。

 義士の墓に線香を手向たむけた後、泉岳寺裏手にある細川家下屋敷跡まで足を伸ばしてみた。ここは都の史跡「大石良雄外十六人忠烈の跡」で、義士切腹の座が残されている。

 元禄十五年(一七〇二)、吉良邸に討ち入り本懐を遂げた義士たちは、大名四家に分散して御預けになり、その後切腹を命ぜられている。現存する切腹の座は、この熊本藩細川邸跡だけである。松平邸はイタリア大使館に、毛利邸に至っては六本木ヒルズに変貌している。

 切腹の座は周囲に塀が廻らされ、立ち入ることはできない。正面の門扉の隙間すきまから、かろうじて中の様子をうかがえる。切腹の座には、目印として大きな平石が置かれている。

 四十七士の美談は、もはや遠いむかしの話となった。毎年十二月十四日の討入りが近づいても、軽快なクリスマスソングときらびやかなイルミネーションが街にあふれ、忠臣蔵の話題はすっかり影をひそめてしまった。

 私が訪ねたときも切腹の座は閑散としていた。帰り際、八十代と思しき小柄なお婆さんと入れ違いになった。振り返ると、お婆さんが門扉の隙間から熱心に中を覗き込んでいた。

 その後、私はかつて細川邸にあったといわれるシイの老木を見にいった。樹齢三百年というから、義士切腹当時、すでに存在していた可能性がある。星霜を経、満身創痍まんしんそういながら、一種独特の妖気を放つ巨木である。

 シイの樹形に圧倒されながら見入っていると、いつの間にか先ほどのお婆さんが私のかたわらに立っていた。じっと巨木を眺めている。

「このあたり、どこまでが細川さんのお屋敷だったんでしょうね」

 遠くを見るような目でつぶやいた。品のいいお婆さんである。お婆さんは以前この近所にいて、杉並に越してからもここの歯医者まできているという。私もかつて杉並にいたことがあり、話がかみ合った。このお婆さん、なかなか忠臣蔵に詳しい。

「殿様は赤穂の浪士一人に対し、一人の介錯人をあてがったと聞いております」

 曾祖母の代まで細川家に仕えていたという。私の母方も、と思わず身を乗り出した。話のなりゆきで、私の先祖が、あの切腹の座で堀部弥兵衛の介錯をしていることを明かした。

 お婆さんの驚きようは尋常ではなかった。両手を胸に当て、目を見開いて私を見上げている。卒倒するのではないか、と心配になるほどだった。

 しばらく立ち話をした後、お婆さんは、「今日はよかった」と何度も繰り返し、立ち去っていった。笑顔の中に涙が光っていた。

 お婆さんの背が次第に小さくなっていく。もう二度と会うことのない人である。どこかの時代で、特別なご縁のあった人ではないか。そんな思いが頭をかすめた瞬間、懐かしさに似た感情が胸に満ち、不意に涙がこみ上げた。

  2013年4月 初出  近藤 健

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