随筆春秋第66号 掲載作品/「イチジク」(はまだかよこ)

随筆春秋第66号ご紹介

イチジク

はまだかよこ(神戸市)

 何か月ぶりだろう。結婚した娘と待ち合わせて、街中のカフェに向かった。秋風が心地よい午後、人気の店は賑にぎわっていた。
「やっぱモンブランかな。栗くりの季節だし」
 私に続けてメニューを見ていた娘が言った。
「私、このフィグタルトにしようっと」
「それなに?」
「イチジクのタルトケーキだよ」
「はあー、イチジクかあ」
 ため息交じりの声を出した。
「そう言えば、家ではイチジク、一度も食べたことなかったよね」
「ごめんね、なんか買う気がしなくって。お父さんも子供のとき、庭のイチジクをやたら食べさせられて、飽きたって言ってたしね」
「お母さんも?」
「うーん、なんていうか……。よし、今日は思い切ってそのフィタルト、食べてみよう」
「ちがうよ、フィグ。英語でイチジク。嫌いなの?」
「いや、新聞紙の匂いと踏切の音がするのよ」
「はあ? また訳の分からないことを」
 周りはおしゃれに装った人たちがティータイムを楽しんでいる。注文を娘に任せた私の意識は、遠い昔へさかのぼった。

昭和の親子と夜更けの踏切

 七十年以上も前、記憶が靄もやの中だが、私は三歳くらいだったと思う。わが家の前の路地を抜けると、商店街が駅まで続いていた。久しぶりに母におぶわれた私は、ねんねこの中でうとうとしていた。風が冷たくなった夜更けの商店街を、母は、幼稚園児の兄の手を引いて歩いていた。どの店もみんな閉まっていて、人通りもほとんどなかった。
「おじさん、くださいな」
 小さな声が母からもれた。閉まった店の前で、地べたに座り込んでいるおじいさんが、新聞紙の上に、わずかなイチジクを並べていた。
「おおきに。よう熟れてるで」
「ありがとう」
 おじいさんと母のかすれた声が重なった。
「ほら、おあがり」
 そう言ってねんねこの中の私に渡したのは、皮をむいて新聞紙にくるんだイチジク一つだった。兄も食べたのだろうか。
 うつむいて歩いていた母の背中で、それを一口かじった私は、新聞紙とイチジクの匂いの中で、またうとうとしていた。
 ずっと向こうまで続く線路に沿って細い道が続く。線路側には木の柵、反対側には、小さな家が軒を連ねている。灯あかりのもれる家や真っ暗な家。時折、ゴーという音を響かせて電車が通り過ぎる。各駅停車しか止まらない駅だからスピードを落とさない電車が多い。その時だけ、ぱあっと別世界のような灯りが目の横を通り過ぎる。
 その小道を行きつ戻りつ、とぼとぼと歩いていた母は、立ち止まってじっとしていたかと思うと、また歩き出す。同じ道を何度も何度も歩いていた。
「あぶない! 母ちゃん、あぶない!」
 突然、兄の叫び声がした。
 カンカンカンカン!
 目の前を轟音ごうおんと眩まぶしい灯りを残して、電車が通り過ぎていった。誰もいない踏切の手前で、母は泣き崩れた。
「母ちゃん、おうちへ帰ろう」
「ごめんね、ごめんね」
 そう言うと、嗚咽おえつを上げながらも、母は商店街をまた戻っていった。
 あれは、飛び込むつもりだった。私も一緒にと、もう大きくなっていた子をおぶったのだろう。寝てしまった私に、あとの記憶はない。あの時のことを、四十年前に亡くなった母と話したことはなく、兄も忘れたふりをしていた。
 大人になって聞いたのだが、その当時父の事業が失敗し、連日借金取りの恐ろしい男たちが出入りしたそうだ。父は、行方不明というか、どこか女の人の家で隠れていたとのことだ。

「お待たせいたしました」
 運ばれてきたイチジクのタルトは上品でおいしそうだった。一口パクッと口に入れる。
「あら、おいしい。うん、おいしいねえ。プチプチしてて」
「どこか遠くをさまよってたね。まあ、いつものことだけど」
 娘も同じタルトをほおばりながら笑った。
「ごちそうさま。あーおいしかった」
「また来ようね」
「そうね。でも、今度はやっぱモンブランにするわ」
 笑いながら私は言って、席を立った。
 娘と別れての帰り道、駅前のスーパーの店頭に並んだイチジクを買った。それを抱えて、家までの道をゆっくりゆっくりと歩いた。


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