僕の人生の覚書

自己紹介
画像はイラストACより

僕に人生で初めての彼女ができたのは、高校2年も終わりの頃だった。春が来て3年生になったら、もう、今のように彼女の隣りに座っていることはできないだろう。富士高では毎年クラス替えが行われていた。焦っていた。なんとかしなければ。そこで思いついたのが、手紙作戦。お菓子屋で購入したロッテのチューインガムを一旦開封し、中のガムを1枚抜き、空いたスペースに小さな紙片の手紙を挿入しておく。これならきっと上手くいくだろう。
「君に惚れた」
下手な文字でこれだけ書いた。翌日、登校して、1時間目が始まる前に、そのチューインガムを隣りの彼女に渡した。彼女も、こちらの目論見に薄々感づいているような素振りだった。さらにその翌日、また登校して、着席すると、彼女がこちらを振り向いて、こっくり頷いた。目出度くカップルの誕生となった。
それからの僕は毎日が有頂天だった。世界にこれほどかわいい存在はないだろうと、浮足立った僕の頭の中は、一足早く、すっかり春になっていた。
それ以降の彼女との進展については紙面には書きにくい。大方の若いカップルと、ご同様であったと思う。説明するまでもないので、ここでは割愛する。
その彼女との結末の詳細は以前にも書いたとおりである。
女性遍歴などと大袈裟なことは何もないのだが、僕の人生も残りが大分少なくなってきたので、この際書きとどめておこうと思う。

・高校2年3学期、クラスメートの女子とカップルになる。2年ほど続いた。開業歯科医の娘だった。翌年2月に受験を控えた年末に彼女から別れを告げられる。
・獣医学科に進学し、同級生の女子と仲良くなる。彼女の両親は熊本にいて、2人とも教員をしていた。僕らが獣医になった暁には、熊本市内で獣医科クリニックを開業する目論見なのだと彼女はいう。「一度、熊本の両親と会ってね!」といわれた。そこまで話が進んでいるのか、とちょっと驚いた。だが、僕は結局、獣医学科を半年で辞めた。彼女との関係もそこで終わった。
・製鉄会社に入社し、相模原の製造所(工場)に配属となり、同じ経理課の女性と親しくなる。僕は26歳になっていた。29歳の時、僕は体を壊し、彼女と将来の夢を描けなくなった。僕の一方的な考えで、彼女とは別れた。
・高校時代の親友の奥さんがお産で入院し、担当の看護師さんを紹介された。29歳から1年ぐらい付き合った。僕の体調はあまりよくなく、結局、僕が彼女を一方的に振った。
こう考えてみると、僕はなんてひどい男なのだろうと思う。最初の彼女には振られたものの、後は僕の自己都合である。

その後、30歳以降の僕の人生は、ただ会社にしがみ付くだけの生活だった。30代では2度の転職をした。鉄鋼業から精密機械、そして産業ガスへと渡り歩いた。それも結局42歳男の厄年で限界となり、2000年のミレニアムでお祭り気分の世間を尻目に僕は自分の会社員人生にピリオドを打った。

今考えてみると30歳から42歳までの僕の人生は一体なんだったのだろうか、と思う。どの企業も正規雇用であったが、体調を崩していては、出世の見込みはほぼゼロに近かったと思う。それでも僕は自分に負けたくない一心で、会社にしがみ付いていた。それが僕の人生にとって、まったく無駄なことだったのか否か、今もって答えが分からない。

その12年間、僕は会社と自宅あるいは実家の往復のみで、社会人ではあるものの、世の中との関係をあまり持っていなかった。そんな名称はこの世に存在しないが、敢えていえば、「引きこもり会社員」であったと思う。

42歳からは15年間、自宅療養を余儀なくされた。近所のメンタルヘルスクリニックに通院しながら、毎日、寝そべってテレビを観る生活であった。生活費の面倒などすべて両親に頼っていた。つくづく思った。両親には北大まで卒業させてもらいながら、なんと役立たずな自分なのだろうと、自分の不甲斐なさを毎日呪っていた。

30歳以降、僕は徐々に孤立していった。親戚との関係も例外ではない。両親はそれなりに連絡を取っていたようだが。気がついてみると、従兄妹たちは皆結婚して所帯を持っていた。従兄妹の配偶者やその間に出来た子供ら、つまり従兄妹姪、従兄妹甥らは皆、優秀である。結局、僕の身内には現在、ドクターが5人もいる。

・筑波大医卒    北関東で総合病院の副院長を務める。循環器。50代
・群馬大医卒    群馬大学病院勤務。救命救急。30代
・群馬大医卒    群馬大学病院勤務。病理学。30代
・金沢大医卒    金沢大学病院勤務。泌尿器科。30代
・杏林大学医在学  そろそろ卒業か。20代
・東邦大薬学卒   薬剤師として働いていると思う。30代
・関大・早大理工博 室蘭工大金属材料工学教授。数年前60代で物故
・お茶女・群大工博 国学院女子短期大学繊維材料工学教授。50代 
(以上2024年12月現在)

彼らとはまったく疎遠であったが、最近は、中元・歳暮のやりとりぐらいは行うようになっている。今時の成績優秀な子は、こんな世相を反映してか、多くの収入を望めるドクターを目指す子が多い。僕らの時代には東大‐中央省庁・一流企業というエリートコースが存在した。それにしても、僕の身内には医療従事者が多く、むかしの彼女にも、医療関係者が多かった。どういう巡り合わせなのだろうか!?

小倉 一純