随筆春秋 代表理事・池田 元 公式HP

松山城天守から愛媛県松山市内を望む (Wikipediaより)




1. 概要

藩から介錯人を拝命するというのは、当時では大変名誉なことであった。このエピソードは、講談「荒川十太夫」や、浪曲「ほまれの三百石」で現在も語り継がれている。講談師の神田松鯉かんだしょうり(人間国宝)や神田伯山かんだはくざんが、その「荒川十太夫」を好んで口演する。

2022年10月歌舞伎座「十月大歌舞伎」では、 この講談をもとにした新作歌舞伎『赤穂義士外伝の内 荒川十太夫』が上演された。主演は、  4代目 尾上松緑よんだいめ おのえしょうろくである。

令和4年度大谷竹次郎賞に『赤穂義士外伝の内 荒川十太夫』が決定した。2022年12月13日付けで、歌舞伎公式ホームページ「歌舞伎 on the web」にて発表された。

2. エピソード

佐藤愛子(直木賞作家)の夫 田畑麦彦たばたむぎひこ(筆名)は、かつて社員教育の会社を経営していた。田畑の特異な金銭感覚が災いし、結局会社は倒産し多額の借金を抱えてしまう。

妻、佐藤愛子が馬車馬のように働きそれを返済していく。佐藤愛子の小説『晩鐘ばんしょうにそのことが描かれている。

一方、池田は田畑の社員教育の流れをくむ会社にかつて在籍していた。佐藤愛子の『晩鐘』執筆にあたり、池田が資料として当時のことをまとめて報告した。

『晩鐘』のあるページには、池田が提供した文章の一節が、訂正なしで掲載されている。この事実は、池田元@Wikipediaに記述されている。

近藤健池田元は奇縁で結ばれている。

大石内蔵助おおいしくらのすけ以下四十七人の赤穂義士が本所・吉良邸へ討ち入ったのは元禄15年(1702)12月のことである。その前年に、江戸城松の廊下で藩主浅野内匠頭あさのたくみのかみが起こした刃傷にんじょう事件の敵討あだうちである。義士たちは吉良上野介きらこうずけのすけの首級をあげ、みごと本懐を遂げる。世にいう「吉良邸討入り」である。その後大名四家にお預けとなった義士たちは翌年2月に切腹を命じられる。

義士切腹に際し、熊本藩邸にお預けになっていた堀部弥兵衛ほりべやへい安兵衛やすべいの父)の介錯かいしゃくを行ったのが米良市右衛門めらいちえもんで、近藤健はその13代後の子孫にあたる。一方、松山藩邸では部安兵衛ほりべやすべい不破数右衛門ふわかずえもんの介錯を荒川十太夫あらかわじゅうだゆうが拝命している。池田元は十太夫から数えて10代目の子孫にあたる。二人の末孫は、奇しくも、堀部弥兵衛・安兵衛親子の介錯を行っている。のちに近藤と池田は、赤穂義士の研究家である佐藤誠を介して知己となった。

すでに随筆春秋の事務局員であった近藤の勧めもあり池田が入会する。その後、池田は随筆春秋の法人化を図り、一般社団法人随筆春秋を立ち上げ代表理事に、近藤は同人誌 随筆春秋の代表として現在に至っている。

2022年は、赤穂義士の討入りから320年という節目の年であった。

※動画では「介錯人というのは幕府から拝命する名誉ある仕事でした」としていますが、誤りでした。幕府から拝命するのではなく、所属する藩から拝命します。「幕府」の部分を「藩庁」に訂正すると正しい説明になります。

3. 主な関係者一覧

  • 堀川とし(実業家/ 随筆春秋創設者)
  • 堀川とんこう(プロデューサー、演出家/ 随筆春秋の指導者)
  • 斎藤信也(元朝日新聞記者/ 元随筆春秋代表で元主催者)
  • 遠藤周作(芥川賞作家/ 随筆春秋のゲスト指導者)
  • 金田一春彦(言語学者、国語学者/ 随筆春秋の指導者)
  • 早坂暁(脚本家/ 随筆春秋の指導者)
  • 北杜夫(芥川賞作家/ 随筆春秋の指導者)
  • 布勢博一(脚本家/ 随筆春秋の指導者)
  • 竹山洋(脚本家/ 随筆春秋の指導者)

(青字は、存命中)

4. 関連項目

5. 外部リンク

6. 随筆春秋とは

7. ABOUT

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題字揮毫は、早坂暁(脚本家)