24. 佐藤愛子先生のご指導「渾身の叱責」

池田元のエッセイ教室

——佐藤愛子先生のご指導——

池田 元

 この夏、ある青年と知り合った。青年の祖父母は佐藤愛子先生と面識があり、自宅に招いたこともあるという。私は彼に「おばあちゃんに差し上げてください」と、先生の本とお写真を送った。彼からは長文のお礼メールが来た。

「先ほど祖母の家に行き、先日送っていただいたものを届けてまいりました。祖母も大変喜んでおり、荒川さんにくれぐれもよろしくお伝えくださいとのことでした。その際、改めていろいろと話を聞いてきました」

「以前、祖母から『佐藤愛子さんが一度だけ家に来たことがある』と聞いていましたが、実際には、愛子さんご本人よりも、お姉さまの早苗さんとの交流のほうがずっと深かったようです」

「祖父が俳句をやっていて、早苗さんが祖父に師事していたそうで、そのご縁から祖母と早苗さんも親しく交流していたとのことでした。その時、早苗さんが提出してきた原稿用紙がお父上の佐藤紅緑さんのものだったらしく、祖父がとても驚いていたそうです」

「祖母は『よく早苗さんと一緒にタバコを吸いながら話をした』と言っていました。祖母の記憶に残っている早苗さんは、俳句もされるし、スキーにも行かれるし、山も登るし、とても活発で性格はさっぱりした方だったそうです」

「旦那さんが大学教授だとか、豪邸に住んでいるとか、そんなことは全然言っていなかった、そういうことをひけらかすような人ではなかった、と話していました。また、愛子さんが女学生だった頃の写真を見せてもらったことも覚えているそうです。神戸の女学校に通っていた頃の写真だったとのことでした」

「祖父は早苗さんのお葬式にも参列したそうです。祖母曰く、当時の佐藤紅緑さんは本当に有名で、神戸に来ていた時期もあり、紅緑さんという名前をよく耳にしたそうです。一方で、サトウハチローさんには一度会ったことがあるそうですが、祖母は『あの人は遊んでばっかりだったよ』と笑っていました」

「また、小田急線に乗っていると線路沿いにプールのある家があって、早苗さんから『遊びに来て』と誘われていたそうなのですが、一度も行かなかったことを今でも心残りにしているそうです。今回、改めて祖母から話を聞いて、私自身も驚きました」

 こんなメールだった。

 早苗さんの話になると、私には佐藤先生との間に苦い思い出がある。

 2017年4月29日のこと。先生は旭日小綬章を受章された。同時に小学館のホームページが更新され「九十歳。何がめでたい」が、累計83万部の大ベストセラーになったことを報じていた。この本は後日さらに部数を伸ばし、続編と共に170万部以上も売れるのだが、当時からまさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

 先生はたいへんご多忙であったと思うが、この日は前々から随筆春秋の打ち合わせを入れてくださっていた。たかが小さな同人誌が相手でも、いったんされたお約束は、決して反故にされたり変更されたりすることはなかった。こちらも以前のように大人数で長時間お邪魔してはならないと、事務局長の石田さんは私だけを連れて先生のご自宅を訪問した。

 ちなみにこのとき先生は93歳、石田さんは79歳、私は54歳であった。用件を終えてほっとしながら3人でお茶を啜っていると、先生は本日来訪しなかった事務局員のことを気遣って、消息を尋ねてくださった。

「上木さんはお元気? 熊澤さんは? 横溝さんはどうしていらっしゃる?」

 事務局ではその前の週に集合して、随筆春秋誌の発送作業を行ったばかりであった。この日も先輩方は来られなかったわけではなく、先生はお忙しかろうと遠慮しただけだ。「みんなとても元気です」とご報告して、ついでに私は余計なことを言った。

「先生の『血脈』にお姉さんの早苗さんのご主人で、大学教授の村木さんという人が登場するじゃありませんか。横溝さんのお兄さんも同じ大学の教授で、村木さんとは特に親しい間柄だったそうです。本の中では村木さんは自分本位で、他人の心がわからない変人のように描かれていますが、じつは世間の評判が良い、優しい方だったのだよとお兄さんから聞いたと横溝さんが言っていました」

 その途端、先生はたちまち厳しい表情になり、強い口調でこうおっしゃった。

「世間の人には評判が良かった? 何を言っているの、荒川さんは。世間の評判なんか、いかにあてにならないものか……。そもそも姉と姉の亭主のことなんだから、昔からすぐ近くで、この目でずっと見てたんですよ。姉の亭主というのは本当にどうしょうもない人だった。あの手紙だってじっさい私が受け取って、それをありのまま書いたのよ」

【「血脈」第三部 第五章 暮れて行く より引用】

 それを読んだ愛子がどう思うかなど、彼は考えなかった。自分が苦しんだことを愛子に理解してもらいたいという気持もあったが、それよりも彼は早苗について、愛子の考えを聞きたかったのだ。なぜ早苗はああまで執拗に彼に盾ついたのか。どんな思いが夫や家庭への顧慮を捨てさせたのか。彼はついにわからなかった。わからなかったということが、早苗の気持を硬直させたらしいことは何となくわかるが、しかし、わからないものはしようがなかった。小説を書く人間だから、愛子なりの解釈があるにちがいない。たとえその解釈が間違っていたとしても、片鱗でもいい、怨み言、非難、何でもいい、彼は聞きたかったのだ。

 だが愛子は返事を出さなかった。

【引用終わり】

 このときの先生は腹の底から怒っておられ、怒声は部屋中に響き渡り、まるでいきなり噴火した火山のようだった。私はたった一つの失言で、奈落の底に落ちたことを悟った。やむなく首をすくめて小さく縮こまり、下を向いてやり過ごそうとした。石田さんはのけぞって驚き、椅子から半分体を浮かせて怒りの波動を避け、それでも顔を背けることはできずに先生を凝視していた。

「世間‼」

 先生は吐き捨てるようにおっしゃった。

「作家が世間と同じことを感じて書いてどうするのよ! もっと真剣に人を研究しなさい。自分が直接観察できない人のことなら、その人とは何なのか、どういう人なのか、自分の頭で一生懸命考えて考えて、考え抜いてから描きなさい。世間の評判がどうこうだなんて、荒川さん、私によくそんなことが言えたものね。あなた、随筆春秋を率いる資格はないわね」

 佐藤先生のお叱りは本当に厳しかった。93歳のお年寄りが54歳になるオジサンを、逃げ場がないほどの勢いで怒鳴りあげたのだ。先生のお叱りのひと言ひと言は、息継ぎをしながらポツリポツリと言われたのではない。若者が喧嘩のとき啖呵を切るような勢いで、一気呵成に私にぶつけて来られた。その後、何度かお叱りを受ける経験があって、次第に慣れたが、このときはすっかり魂消たまげてしまった。

 今になれば佐藤先生のお怒りの根底には、文学に携わる者への深い愛情があるのがわかる。究極のところ作家は「自分はどう感じたか。それをどう読者に伝えるか」がミッションである。世間などという、曖昧で定義づけもできないようなものの声を伝え聞いて、さも真相を知ったかのように噂するのはプロの作家のすることではない。さらにこのことの原点には、佐藤先生が日ごろ口癖にしておられた「座右の銘」があった。

【第17回随筆春秋賞表彰式での祝辞より引用】

「私は初めて出版した『愛子』という本を、父や兄がお世話になっていた室生犀星に送りました、すると御礼のハガキにこう書いてあったのです。『ものを書くということは親を打ち、きょうだいを討ち、友を切り、しこうして己を討つものです』と」

「以来私は、これを座右の銘にしています。私があんまり周囲の人のことを、あからさまに遠慮なく描くので、『あなた、そういうことをお書きになっていると、ご家族やお友達からいろいろ言われるでしょう』と心配してくださる向きもあるんですが、そんなことはへっちゃらです」

「友達が減るでしょう、なんて言われますけど大きなお世話です。なあに、そのうち、佐藤愛子はしょうがない、あいつに書かれたんじゃ仕方ない、と周囲が諦めるようになるんです。ものを書くというのはそういうことなんです」

【引用終わり】

 先生は私に「あなたは『血脈』を読んでいながら、どうして村木という人間の本質を感じ取れないのよ」とおっしゃりたかったのだろう。また、「私が世間の評判というものに抗って、村木の実像をさらけだして書いたことの意味がわからないのか」とも、おっしゃりたかったに違いない。本当に最後まで不肖の弟子で申し訳なかった。

 そのあと石田さんの必死のとりなしで、どうにか佐藤先生のご機嫌は直った。否、先生は単に『もう叱るのはじゅうぶんだ』と、機嫌が直ったふりをしてくださったのかも知れない。ともかく話の潮目が変わったのを幸いに私たちは早々に辞去した。外に出て、50メートル先にある幼稚園の坂道を下りながら、石田さんがぽつりと、笑いもせずに言った。

「ああ、ギロチン台に上らされたような気がした」

 2026年4月29日、このお叱りからちょうど9年後に先生は逝かれた。今日は11月5日、ご存命であれば満103歳をお迎えであった。去る者は日々に疎しというが、佐藤愛子先生との思い出は日々、かえって鮮明になっていくような気がしている。

(2026年11月5日)



制作|事務局