こんけんどう先生が小説を書かない理由
ウェブの更新と不具合の修正を続けるうちに、タイトルに対する答えも見つけられそうな気がしてきた。落ち着きがなく読書が苦手の正倉だが、こういう仕事を仰せつかっていると、知識や情報が嫌でも頭に入る。
事務局内では、正倉は、近藤健代表のことを「こんけんどう※先生」とか「師匠」と呼んでいる。代表理事池田さんや編集長は「近藤さん」。紅一点の南さんは一体なんと呼んでいるのだろうか?
(※「こんどうけん」をもじって「こんけんどう」。開発者は、本人)
……と、書きながらふと思うのだ。「紅一点」って今の時代、ちょっとまずい表現かもしれない。ジェンダー・フリーの観点から見ると、少し引っかかるところがある。
とはいえ、今はそんなことを考えている場合ではない。正倉も、傍が思っている以上には忙しい……(汗)。
さて、本題に戻ろう。師匠は40歳で文筆の世界に飛び込んだ。実はその頃、家庭内では大きな問題が起こっていて、書くことで自らの命脈を保っていた。
「一体どんな問題だったのかしらん?」
残念ながら、詳しいことはお話できない。正倉の表現力や人間観察眼では、まだその域に達していない。
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師匠は、北海道は日高地方・様似の生まれで、父親は地元漁協の勤め人、母親は地元では唯一の銭湯の娘だった。両親は結婚後、その銭湯の2階に所帯を持った。
子どもの頃から出来がよく、中学卒業後は地元を離れ、札幌市にあるちょっと名の知れた私立進学校に入学した。ちなみに、その高校はキリスト教系だった。
高校卒業後は、京都にある仏教研究で超有名な大学に進学した。すでに名の知れた作家・五木寛之が、東京から新幹線で講義を受けに通っていたほどだ。
本人の言葉によると、「不埒にもアーメンから南無阿弥陀仏への宗旨替え」であったそうだ(笑)。
大学卒業後は、東京の大手企業に就職した。東日本を中心に販売網を展開するガソリンスタンドチェーンである。結婚して、女の子にも恵まれ、仕事も順調。自分の職務に手応えを感じていた。
しかし、人生はそう甘くない。容赦なく押し寄せる荒波に、飲み込まれていくことになるのであった……!!!
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若い頃から文学青年だったが、文章を書くことは苦手だった。それでも努力を重ね、見事、第8回随筆春秋賞(優秀賞)を受賞した。金メダルである。これを機に随筆春秋の同人となり、その後、師匠は、何人かの師匠と出会うことになる。
中でも、直木賞作家の佐藤愛子先生とは、後に師弟関係を超えた深い絆で結ばれることになる。(←クリック)
そんな恵まれた環境の中、ある時、しかるべき先生に就いて「脚本家」にならないか、という話が持ちあがった。その頃は会社員として働きながら家庭の問題にも直面していたから、脚本家への道は諦めざるを得なかった。
その後も文筆活動を続け、佐藤愛子先生からは年賀状に「来年はいよいよ大作ですね!」と激励の言葉をいただくまでになった。これはつまり、「近藤さん、そろそろ小説家になりなさい」という意味だったと正倉は解釈している。
こんなエピソードがある。こんけんどう先生の作品から抜粋した。
(以下抜粋)
愛子先生が私の実情を知ったのは、私が同人誌に発表した作品からでした。作品評をもらいにご自宅を伺った際、「これはね、エッセイの限界でしょう。小説にすべき作品ですよ」
妻の病気関連の作品を目にするたび、そのように言われた。講評が終わって雑談に入ると、私の生活の状況をいつも訊かれた。
2011年3月、私が転勤で室蘭市に転居してほどないころ、突然、愛子先生からお手紙をいただいた。そこには「あなたは小説を書く気がおありですか」と改めて尋ねるものだった。もし私が応じるのなら、先生はそれなりの指導を考えていらっしゃったのだろう。だから、わざわざお手紙をくださったのである。その心が私の胸に沁み、もったいなくて涙が零こぼれた。
(以上、近藤 健「つれづれなるままに、愛子先生(1)~(7)」より抜粋)
ここだけの話だが、師匠は、あの有名な作家吉本ばななさんにも引けを取らないほど文章が上手い。「近藤健のエッセイ、ツボを心得ていてめっちゃ面白かった。吉本ばなななんか目じゃないッ」と書き込んでくれるファンもいるほどだ。
だが、売れっ子作家である吉本バナナには時間がない。「その差ですよ」と、師匠はいう。
ところで、職業作家といえば、一体1日にどれぐらい原稿を書くものなのだろうか?
調べてみると、後に直木賞作家となる野坂昭如が、酔った勢いで受賞作となる『火垂るの墓』の、400字詰めで50枚程度の原稿を一晩で一気に書いたとか、直木賞の名前の由来となった作家・直木三十五が、ときには一晩で原稿用紙100枚くらいは書いた、などという逸話が残っている。
そんな特別な例はさておき、かつて日本テレビの「11PM」の司会でも有名になった直木賞作家・藤本義一は、コンスタントに、1日4枚の原稿を書いたそうである。
一方、超絶技巧な作風でも有名な文豪・谷崎潤一郎は、1日に2枚しか書かなかった。本人の筆によると「作品の質を落としたくないから」との旨、明かしている。
正倉の勝手な想像であるが、結局師匠には小説を書くための十分な時間がなかった(ない)のではないだろうか。
(つまり吉本バナナよりは時間があるが藤本義一や谷崎潤一郎ほどの時間は持ち合わせていない、ということ)
こんけんどう先生は、2024年12月現在、フルタイムの売れっ子会社員である(笑)。
それに、佐藤愛子先生は文章指導の中でおっしゃっている。
「小説もエッセイも文学的価値は同じなのですよ」と※。
したがって、この件について、性急に答えを求める必要もないのであろう。
※佐藤愛子先生のご指導その1
小説もエッセイも文学的には優劣はないんですよ。どちらでもとにかく人を書きなさい。人というものを掘り下げて、掘り下げて書く、それが文学です。これでいい、これでわかった、これで終わりというものがないんです。それが文学の難しいところであり、面白いところです。
👉 https://hajimeikeda.amebaownd.com/posts/40961517
※佐藤愛子先生のご指導その2
説明と描写の違いについて触れておきます。(中略)書くということが思いにつながっていないといけないんです。物事の本質を伝えるには、描写するということにこだわらなければいけないんです。書いていくことで、人間というものの本質に近づきたい、私がものを書く理由はそこにあるんです。
👉 https://hajimeikeda.amebaownd.com/posts/41016732
正倉 一文