第36回 浜尾まさひろ 童話教室
「大人の感傷」はNGワードか?
ファンタジー童画に挑んだのは30代でした。当時通っていた講談社フェ―マス・スクールで作品を発表したのです。
児童文学評論家、女子大の名誉教授でもあった西本鶏介先生は辛口で有名でした。
耳の聞こえない少女を主人公にした「そらいろの瞳」を教室で朗読すると、西本先生は受講生たちに感想をうながしました。
主婦やOLたちの中で男性は私一人だけです。そのうえ、西本先生の威圧感に押され、怖さだけが漂っていました。
「皆、彼の文章に騙されないように……」
西本先生の言葉が終わるやいなや、女性たちが一斉に手をあげました。
ほとんどの内容が「どうして少女が口をきけない設定にしたのか?」というものでした。私としては、忙しい母親が赤ん坊を静かな山奥に住む祖母に預けてしまったこと。子守歌も聞けずに育った少女が言葉の発達が遅れてしまったことをアピールしたつもりでした。一人旅に出かけた少女は、さまざまな動物たちとふれあい、雨あがりの虹を見ることで暗い視界に希望の空が広がる……という内容だったと思います。
けれども、空気が一転しました。西本先生は、私を睨みつけるような眼差しで言い放ったのです。
「センチメンタルだね。君の作品はフルーツパフェに砂糖とシロップと小豆を混ぜて、グルグルと掻き回したようなものだ!」
教室はしんとなりました。
ただでさえ、緊張していた私への酷評は冷水を浴びせられた思いでした。それが初めての洗礼だったのです。少女を安易に言語障がい者にしてしまったことを後悔しました。
自分でも気づかずに感傷に浸りきっていたわけです。
「感傷も、時には必要な場合があります」
後に受講した立原えりか教室で、私は先生からそう言われました。
立原先生の童話(ファンタジー)は大人の読者も多く、作品に「感傷」が必要だったことがあったかもしれません。しかしながら、子どもに語りかける童話において「大人の感傷」は邪道であり「毒」にしかならないのは確かなようです。「そらいろの瞳」は子ども向けに書いたわけではありませんが。子どもから大人まで楽しめる童話を書くことがいかに難しいか……ということです。
立原教室も、自作を朗読した後に生徒が感想を述べ、先生が批評するやり方は同じでした。「面白かったです」や「引き込まれました」といった、おざなりの感想は許されません。「どこがどんな風に」「足りないものは?」「何が引っかかるのか」を具体的に指摘してあげることが、自分の作品を客観的に見つめる訓練になるからです。
浜尾
制作|事務局 正倉 一文