データと文章で綴る自己紹介
小倉 一純
(戦争を知らない子供たち世代)
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1. 文学賞受賞歴
文学賞 | タイトル | 発表媒体 |
・第19回 文芸思潮エッセイ賞 佳作 | 「前途晴朗なり」 | 2024年09月 文芸思潮93号 |
【説明】第18回では、自分のつらい話を書いて足場を固めた。今回は、いい話を書いて頂を狙った。世の中のエッセイ賞というものを俯瞰すると、一般的には、つらい話ではトップに届かない。いい話で晴れ晴れとした読後感を与える作品が頂を極めている。ただし、いい話にインパクトを持たせ上手くまとめるのは、つらい話を書くよりも難しい。今回は、前作よりかなり工夫を凝らしたつもりだったが、先生方には今ひとつインパクトに欠けたのだろうか。 僕の独自見解だが――美学という観点で考えると、それとは分からず、どこかに破綻が仕込まれていないと、作品としてのインパクトは小さくなるように思う。 今後も自己の内面を深く掘り下げ、普遍的な感動を呼び起こす、唯一無二の文学表現を追求していきたい。 文芸思潮93号が届いて驚いた。今年のエッセイ賞は昨年よりかなりレベルが高い。上位賞に入っているタイトルをざっと眺めただけでそう思う。ガザ、ベルリンの壁、大統領選挙など、社会性の高い作品が多く栄冠に輝いている。現に、編集長の五十嵐勉先生が、講評で、「前年度より応募総数は減ったものの、レベルの高い作品が相当に増え、どの作品を落とすか、本当に苦労した」との旨書かれている。前年度なら、奨励賞となった作品も、今年は、その大部分が佳作になったりしている、という意味である。 | ||
・第18回 文芸思潮エッセイ賞 奨励賞 | 「絶望から希望へ」※ | 2023年09月 文芸思潮89号 |
【説明】※2024年4月、日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)で「日本語文章力 3段」を取得した。当該作品「絶望から希望へ」で受験し、評価された。お言葉をいただいた。 ⇒ 小倉さんの今回のエッセイはとてもよく、もっと高評価されるべきものと思い、三段とさせていただきました。この気概があれば、さらに上を目指せるものと思います。あらためて、小倉さんの深く高い志を知ることができ、深く敬意を表します。これからも頑張ってください。――2024.04.12 日本語文章力検定協会 五十嵐 勉 | ||
・第17回 文芸思潮エッセイ賞 入選 | 「冬の庭」 | 2022年09月 文芸思潮85号 |
【説明】2021年春、96歳の誕生日を前に亡くなった父の介護記録である。 | ||
・第15回 文芸思潮エッセイ賞 佳作 | 「夢を追う覚悟」 | 2020年09月 文芸思潮77号 |
【説明】自己評価では、第17回入選作「冬の庭」の方が美文であると思った。特に「夢を追う覚悟」の前半部分は駄文である。しかし、文芸思潮の作家・五十嵐勉先生から送っていただいた「評価コメント」よると、この作品には訴えてくる何かがある、という。文章が上手いに越したことはないが、文芸作品には実はこの点こそ重要なのだ、と改めて考えさせられる作品だった。以下がこの作品のハイライト部分である。 ⇒ 夜中、休んでいる部屋の、北側の窓の向こうから、ドスンッという大きな物音が聞こえてきた。あわてて飛び起きて、腰高のその窓を開けると、庭の、柿の木の太い枝から、首を吊った男の屍がぶら下がっている。目を凝らして見ると、それは私だった。寝返りを打った拍子にふっと目が醒めると、額に大粒の汗をかいている。私は、悪い夢を見ていた。首でもくくろうかというところまで、私の意識は追い詰められていた。 | ||
・第25回 随筆春秋賞 奨励賞 | 「犬走りを行く」 | 2019年11月 随筆春秋より賞状 |
【説明】犬走りとは、建物の周囲をぐるりと囲む細い通路のこと。外出が億劫な私が自宅の犬走りを使い、毎日運動をしている、というちょっと風変わりな小品。 | ||
・第14回 文芸思潮エッセイ賞 佳作 | 「ステンレス鋼」※ | 2019年09月 文芸思潮73号 |
【説明】※2023年2月、日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)で「日本語文章力 初段」を取得した。 当該作品「ステンレス鋼」で受験した。精査の結果、優秀賞に次ぐ出来映えであると再評価された。 | ||
・第24回 随筆春秋賞 奨励賞 | 「二クロム線」 | 2018年11月 随筆春秋より賞状 |
【説明】大学卒業後、初めて勤務した会社での出来事を題材とした作品。 | ||
・第23回 随筆春秋賞 奨励賞 | 2017年11月 随筆春秋より賞状 | |
【説明】北関東の貧しい家庭で育った父の苦学の半生を綴った作品。 |
2. 資格・検定・その他の賞
検定・講座・コンクール | 主催者 | 取得時期 |
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・日本語文章力3段 取得 | 日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮) | 2024年3月 |
【説明】※日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)で「日本語文章力 3段」を取得した。第18回 「文芸思潮」エッセイ賞で奨励賞となった作品「絶望から希望へ」が評価された。お言葉をいただいた。
⇒ 小倉さんの今回のエッセイはとてもよく、もっと高評価されるべきものと思い、三段とさせていただきました。この気概があれば、さらに上を目指せるものと思います。あらためて、小倉さんの深く高い志を知ることができ、深く敬意を表します。これからも頑張ってください。――2024.04.12 日本語文章力検定協会 五十嵐 勉
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・日本語文章力 初段 取得 | 日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮) | 2023年2月 |
【説明】※日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)で「日本語文章力 初段」を取得した。第14回 「文芸思潮」エッセイ賞で佳作となった作品「ステンレス鋼」で受験した。精査の結果、優秀賞に次ぐ出来映えであると再評価された。
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・公募スクール実践講座 島田雅彦の純文学講座 | (株)公募ガイド社 | 2021年3月 |
【終了賞】※島田雅彦の純文学講座 終了証(←CLICK!) 【説明】島田雅彦『小説作法ABC』新潮社、2009年3月25日.を教科書として用い、受講者は各セクションを終了する毎に課題を提出する。所定の過程が終わると、終了証が授与される。この教科書は、2007年に島田雅彦氏が法政大学で行った文学Ⅰ、Ⅱの講義がベースとなっている。僕が終了証を受け取ったとき、世の中はコロナウイルス感染症の渦中にあった。公募ガイド社の配慮で、島田氏の特別講演が、自邸から、オンラインで配信された。終了後、質疑応答が行われた。「先生が一番尊敬する文学者は誰ですか?」の問いに対して「ベタな答えですけど、僕の場合は、やはりトルストイです」と回答した。島田氏は、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業である。最後に、「僕も常に自分は弱者であるというスタンスから物を書いています」と締めくくった。 |
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・英検2級一次試験(筆記・リスニング)合格 | 公益財団法人 日本英語検定協会 | 1985年 |
【説明】大学卒業後、製鉄会社(現在の日本製鉄)に入社した。新入社員教育の一環として、社内(製造所)で英会話の研修が行われた。成果を確認するため、社命により、大卒同期全員が英検2級を受験した。旧日本金属工業の同期は十数名だったが、その8割が一次試験(筆記・リスニング)で不合格となった。京大、東北大、九大、筑波大、北大、慶應、学習院など、皆、名立たる大学を卒業している割には、随分と情けない結果だ、と正直思った。もっとも、こちらにもそんなことをいう資格はない。かくいう僕も二日酔いを言い訳に、2次試験(面接)を受けなかった。――内心、自信がなかったのだ。男の風上にも置けない自分であった。 |
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・東京都「緑の週間」ポスター入選 | 現・東京都緑化推進委員会 | 1972年 |
【説明】中学2年生のとき、担任は美術大学出身だった。そんなことが関係したのか、僕は東京都「緑の週間」のポスターに応募することとなった。結果、図らずも入選してしまった。 | ||
・第2回 カワイ音楽コンクール全国大会 ピアノ中級部門 委員長賞 | (株)河合楽器製作所 | 1969年8月 |
【当時の動画】※当時の動画|富士録音がレコードを作成。音源は、それをデジタル化。(←CLICK!) 【説明】(株)河合楽器が音楽コンクールを始めて2回目の全国大会だった。場所は、上野の「東京文化会館」。クラッシック音楽のメッカだ。その小ホールに置かれた、シュタインウェイの最上級グランドピアノで腕を競い合った。小学4年生の僕は、中級部門のトップ(中級|委員長賞)を勝ちとった。審査員のひとりであるクロイツァー豊子(ピアニスト)からは、僕を大会最優秀者としよう、との進言がなされた。大会規約では、上級部門のトップ(上級|委員長賞)が大会全体のトップとなる、と定められていた。審査員などで合議の結果、惜しくも、進言は却下となったが。この大会の受賞者は、大手新聞の地方版などで報じられた。僕と同じ中級部門で、3位(努力賞)をとった男子は、その後、音楽大学で教鞭をとる指導者となった、と風の便りに聞く。なお、クロイツァー豊子は、指揮者でありピアニストのレナード・クロイツァーの妻である。その後僕は、河合楽器音楽教室の女性教師から、NHKピアノ教室の生徒としてテレビ出演することを打診されたが、お断りした。さらには、指揮者・近衛秀麿(首相・近衛文麿の弟)の模範レッスンの生徒にも選ばれ、鬼怒川のホテルの会場でピアノを披露した。壇上では、近衛秀麿から懇切な指導を受けた。最終的には、前述の音楽教室教師から、藝大受験を勧められた。その前段階として、藝大の教授を紹介され、「この子なら弟子にとってもいい」と内諾をいただいた。しかし、音楽の道は投資した金額の割には成功することは稀だ。音楽家は三代続いてこその才能である、とまでいわれる。結局、両親の意向により、平凡なサラリーマン人生を選択することとなった。もっとも僕の場合、そのサラリーマンでさえ、全うすることができなかった、という落ちがつく。なお、大会は、現在まで継続して行われている。あれから55年が経ち、僕は文筆家修行に身を投じている。 |
3. 心に留めている言葉
「文学とは何か」
人間の底には荒涼とした原野がある。人は日常生活においてそれを直視したくない。それに覆いを被せて生きているのが日常である。しかし文学はときにそれを剥ぎ取って見せ、生きる根深さを体感させてくれる。そこに文学の一つの精神性があるのであって、自然の相貌と対峙する生命の孤独がそこにこそ発露し、灼熱の文学体験が生まれる。
五十嵐 勉(作家)
「同人雑誌に参加する心構え」
同人雑誌の営為は尊いものです。それは表現の原点であるからです。一つの雑誌を作り、それに作品を発表して、自らの芸術活動を問おうとするその行為こそが、文学活動の源泉です。ここから日本の文学を変えるくらいの自信と気概を持って表現活動を展開していっていただきたいと思います。
五十嵐 勉(作家)
4. 文章修行歴
4-1. 媒体露出歴(作品掲載歴)
媒体名 | タイトル | 作成時期 |
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国立国会図書館※1 | 00. 『私の作品集 2016』(01. ~05. の合本) | 2016年12月 |
国立国会図書館 |
01. 『短文で綴る自分史』 |
2016年12月 |
国立国会図書館 | 02. 「幸福塾の想い出 ― 標高700mの農園 ―」 | 2016年12月 |
国立国会図書館 | 03. 『父のエピソード ― 父の自分史 ―』 | 2016年12月 |
国立国会図書館 | 04. 「第2回 カワイ音楽コンクール 全国大会」 | 2016年12月 |
国立国会図書館 |
05. 「アスペルガー症候群」 |
2016年12月 |
国立国会図書館 |
06. 『編集後記・私の発達障害』 |
2016年12月 |
国立国会図書館 | 2017年 初夏 | |
随筆春秋第49号※2 | 「仕事をさせていただきます」 | 2018年03月 |
随筆春秋第50号 | 「春分の日 ――寒さの中で思い出すこと」 | 2018年09月 |
随筆春秋第51号 | 「ニクロム線」 | 2019年03月 |
随筆春秋第52号 | 「名古屋の母」 | 2019年09月 |
文芸思潮75号 | 「ステンレス鋼」 | 2020年 春 |
随筆春秋第53号 | 「犬走りを行く」 | 2020年03月 |
随筆春秋第54号 | 「随想・兵どもが夢の跡」 | 2020年09月 |
随筆春秋第55号 | 「夢、追いかけて」 | 2021年03月 |
随筆春秋第56号 | 「札幌のホテルと受験時代」 | 2021年09月 |
随筆春秋第57号 |
「ラストスパート」 |
2022年03月 |
随筆春秋第58号 | 「父、東京へ ――苦学の思い出」 | 2022年09月 |
随筆春秋第59号 | 「ずっと小説家になりたいと思ってきた」 | 2023年03月 |
文芸思潮91号 | 「絶望から希望へ」 | 2023年03月 |
随筆春秋第60号 | 2023年09月 | |
随筆春秋第61号 | 「製鉄所と彼女」 | 2024年03月 |
【説明】随筆春秋 代表理事 池田 元 氏より講評をいただいた。⇒ 随筆春秋第61号掲載の御作ですが、日常の通勤風景の描写からスタートして、作家の思索が生命哲学と申しますか、むしろ宗教的内容にまで到達します。読者をあっという間に日常から星空にまで放り出す技法は天賦の才であり、佐藤愛子先生がよくおっしゃる「作家脳の持ち主だからこそできること」だと思いました。御作に対する会員の皆さんの感想が楽しみです。2024.3 池田 元 |
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随筆春秋第62号 | 「父にとっての山崎富栄さん」 | 2024年09月 |
【説明】随筆春秋 代表の近藤 健先生より好評価をいただいた。⇒ 62号掲載「父にとっての山崎富栄さん」も秀作だと思います。『ベストエッセイ集』※(日本エッセイスト・クラブ編 文藝春秋刊)が存続していれば、間違いなく収録される作品だと思います。2024.9.1 近藤 健 (※有名作家と素人作家、同人作家などが肩を並べて秀作を披露していた) |
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随筆春秋第63号 | 「工場」 | 予定 |
随筆春秋第64号 | 「我が家と古戦場」 | 予定 |
※1|参考:国立国会図書館「オンライン資料収集制度(eデポ)」
※2|随筆春秋(同人誌)は、電子版も出版されている。
4-2. SNSやWebに掲載
種別 | 名称 | コンテンツの内容 |
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習作を掲載 | ||
Ameba Owned | 『私的サイト|カモメが飛ぶ日』 | 作品を掲載 |
4-3. テキスト形式で習作を保存
テキスト形式の習作を常に書きPCに保存。2024年8月17日時点で1610作品。以下はその一部。第1作目を書いたのは2017年11月12日。作品名は、「ヤマザキパン」
(画像クリック↑)
4-4. 筆写
・佐藤愛子著『晩鐘』『血脈』(上・中・下)をPCで筆写。4年の歳月を要した。
・現在(2022年)は、遠藤周作著『深い河』をPCで筆写中。
4-5. 文学賞に向けた作品づくり
文芸思潮エッセイ賞、小諸・藤村文学賞などを想定し、原稿用紙10枚の作品を書いている。純度の高い作品を目指しているが、なかなか上手くいかない。
4-6. Wikipedia編集者として
Wikipediaに承認された編集者として、記事の立項や加筆修正に勤しんでいる。記述範囲は純文学、企業情報、科学技術など。
4-7. website作成者として
さまざまなwebsiteのデザインやコンテンツの、考案や作成に従事している。プロではないが極上の出来映えを目指している。
5. 職業歴
会社名 |
業種 |
入社、退職など |
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純文学同人(エッセイ) |
2017年11月入会 |
|
【説明】第23回 随筆春秋賞に応募し、図らずも「奨励賞」をとった。それを契機に同年11月、当時事務局長を務めていた池田元氏にすすめられ、同人誌 随筆春秋(一般社団法人 随筆春秋)の会員となる。 【入会前後の時代背景】2001年から2016年の間、僕は、失われた15年を過ごす。会社での無理が原因で体調を崩し自宅療養の日々を送った。当時の世相も同期間を「失われた15年」と呼んだ。ちなみに、1986年に起こったバブル景気は、その後1991年から1993年が「バブル崩壊期」と呼ばれる。ジュリアナ東京は、その1991年に開業している。バブル崩壊直後の1994年、日本のサラリーマン平均年収は過去最高値をマークした。その後2006年に発足し紆余曲折を経て2020年まで続いた安倍内閣のもとで「アベノミクス」が積極展開された。日銀の量的緩和政策が目玉だった。日本経済の右肩上がりへの回復も、気持ちの上では期待されていた、と思う。世にいう「失われた15年」とは、僕の考えでは、2000年から2015年の15年間であり、それはその後、「失われた20年」となり、2024年現在では、確定的に、「失われた30年」(バルブ崩壊直後の1994年から2024年)と呼ばれている。さらに現在、日本の経済は、円安インフレ傾向を示している。G7(主要7か国蔵相会議)から陥落する可能性も大である。 【付録|僕の人生と日本経済】ちなみに僕と日本経済の推移は以下のようにリンクしている。◆「高度経済成長期」の最中に僕はこの世に生を受ける。◆高校入学の頃、中東戦争が引き金となり、日本経済は「安定成長期」へと移行する。◆その後、僕が28歳を迎えた1986年、時代は狂乱のバブル景気へと突入する。タバコを買いに500m先の店までタクシーに乗り1万円札で支払い「おつりは要らない」といって下車する兵も出現した。◆33歳となった1991年には、お立ち台で有名な「ジュリアナ東京」が開業するが、その背後では密かにバブル景気は翳りを見せ、1993年は、そのバブル景気の終焉の年となる。◆その後2000年まで、日本経済には紆余曲折もあったが、国内ではまだ、右肩上がりの日本経済が復活すると考える人々もいた。僕もそのひとりだった。その2000年に僕は42歳となった。この年は、無理から体調を崩し、サラリーマン人生を諦めた節目でもある。◆結局42年間、僕は、期待も含めて、経済が右肩上がりの時代を生きて来た。◆その後の「無成長の時代の風」を感じることができず僕は苦慮していたが、最近やっと目の前の時代を実感として感じることができるようになってきた。2024年現在、僕は60代も半ばを迎えている。 |
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化学(産業ガス・機器製造) |
2000年 42歳 正社員 で 退職 |
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【説明】前職に引き続き、営業職を希望して入社した。産業ガスを製造するメーカーだった。医療用のガスを販売することとなった。主な取扱商品は、MRIに充填する液体ヘリウムである。MRIとは病院に設置された画像診断装置のこと。その翌年、当時、虎ノ門にあった本社内の子会社へ出向となる。役所に提出する文書や、自社の製造した機械の取説(取り扱い説明書のこと)など、文章を書く仕事が多かった。こういう仕事は好きだなと思った。が結局、体調を崩し、筑波山麓の工場へ転勤となり、現場仕事に汗を流すこととなる。 当時、日本エア・リキードの社長は佐藤康夫氏であった。一方、大学時代を共に過ごした忘れ難い友人といえば、佐藤正道君である。彼は、参天製薬の役員として会長の右腕となり、その辣腕ぶりを発揮していた。偶然にも同じ佐藤姓を持つ2人だったが、仕事を通じて友人関係を築いていた。日本エア・リキードも製薬業界とオーバーラップする分野に進出していたのだ。僕はといえば、その日本エア・リキードの筑波工場で、一介のブルーワーカーよろしく働いていた。幼い頃、父によく「お前のような怠け者は人生の落伍者になるぞ」と発破をかけられたものだった。まるで呪いの言葉のように、それは現実のものとなった。旧帝大を卒業し、もがきあがくように会社員生活にしがみついたが、結局、最後に得たものはそういう立場であった。しかし、奇妙なことに、僕はある種の痛快さを覚えていた。それは、まるで荒波にもまれた小舟が、ようやく嵐の後に穏やかな入り江を見つけたような、安堵にも似た感情だった。「俺もとうとうここまで来たか!」。それは、自嘲と諦念、そして奇妙な達成感の入り混じった、複雑な感情の叫びだった。 |
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精密機械(空気圧機器) |
1991年3月 中途入社(正社員) |
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【説明】会社は精密機械を製造していた。苦手克服との思いから営業畑を希望し、そのとおりの採用となった。まるで受験生の発想である。時代はバブル景気を迎えていた。ちなみにバブル景気とは1986年に始まり1991年‐1993年がその崩壊期。時代の象徴は、「ジュリアナ東京」(ディスコ)の「お立ち台」。会社の経費を使い、顧客と飲むことが、上司から褒められたのは、この時代だけである。僕は機械オタクだったが、へそ曲がりで、仕事となると、自社が製造する製品の型番などを覚えるのが嫌いだった。 | ||
鉄鋼業 |
1984年4月新卒入社( 〃 ) |
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【説明】経理を希望する文系新入社員が皆無だったところ、「まぁ経理でもいいかッ!」と独り言をいったらそこを総務部長に見つかり、経理課員とされる。とりあえずは簿記とは無縁の、積算と作表の仕事だった。原価計算係である。大卒新入社員の初任地は製造所(工場)と決まっていた。当時はバブル景気の前で日本の経済は右肩上がりだった。定期昇給1万円、ベースアップ1万円、年間の給料はボーナスも含めて17ヶ月分というスタンダードが存在した。そんな中でも鉄鋼業は構造不況以来、斜陽産業だった。 |
6. 研究歴(新規追加)
歴史・文化分野に関心を持ち、電子書籍の監修・発行を行う。地域資源としての農産物や畜産物、母校札幌農学校創成期からの教育理念などに関する書籍を刊行。これらの書籍は、リサーチマップに登録されている教育学者の参考文献として引用され、私の名前が記載されている。
7. 学校歴
学校名 | 卒業、中退 | 入学、卒業 |
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北海道大学 経済学部 経済学科 | 卒業 | 昭和54年4月入学|昭和59年3月卒業 ※ |
【説明】父が日本電信電話公社(通称:電々公社|現NTTの前身)に勤務していた。前身は、逓信省(ていしんしょう)という中央省庁である。そういう背景もあり、電々公社の幹部クラスは、旧帝国大学出身者が占めていた。僕は、旺文社の「蛍雪時代」という受験雑誌を読み、北大の蛮カラな校風に憧れを抱くようになっていた。北大も旧帝大である。経済学部を選んだのは、潰しが利くから。その頃の僕には将来に対するビジョンなどまったくなかった。 | ||
日本大学 農獣医学部 獣医学科 | 中退 | 昭和53年4月入学|昭和53年9月中退※ |
【説明】半世紀も前の話である。高校2年生の3学期、席が隣り同士になったのが縁で彼女ができた。彼女の父親は、東京医科歯科大学出身の歯科の開業医だった。そんなことへの忖度もあり、成績の悪かった僕は獣医学部に進学をした。僕は犬を飼っていて動物が好きだったが、獣医師になるのだ、という強い気持ちがあったわけではなかった。受験直前、僕はその彼女に振られた。 彼女は、付き合っていた頃によく「わたしぃ、絶対にッ、サラリーマンの奥さんにはなれないと思うの」といっていた。あれはどういう意味だったのだろうか。彼女は結局、国家公務員と結婚した。 失恋は、40歳を迎える頃まで僕の人生に暗い影を落としていた。あの頃は、彼女と結婚することを心に決めていた。 彼女が僕を振った理由は、僕の浮気だったという。予備校時代、僕はある時期ほぼ毎日、友人の彼女と一緒の電車で帰っていた。彼女も代ゼミに通っていた。僕は、西武池袋線沿線だったが、その彼女に合わせ、西武新宿線に乗った。そのせいで、毎晩、西武新宿線の鷺宮から西武池袋線の中村橋まで、北へ向かって1時間半、歩くことになった。都心と郊外とを東西に結ぶ2本の西武線の軌道は、ほぼ平行に走っている。僕はその彼女とデートはおろか、手さえつないだことはない。 「わたし知ってるんだからッ」と、彼女は僕とその彼女のことを誰かから告げ口されて知っていたようだった。彼女は、僕の受験を理由に、1か月に1度ぐらいしか会おうとしなかった。素敵な女子が傍らにいれば、電車ぐらい一緒に乗りたいと思うのが人情だろう。それ以上のことを要求するのであれば、僕は出家でもすればよかったのだろうか。 僕は獣医学科を辞めた。失恋した以上、そこに留まる必要はなかった。それだけが理由ではない。生物の解剖実習や、動物と向き合う中で、獣医師という職業の厳しさを実感した。また、6年間の勉強を終えても、国家試験に合格しなければ獣医師になれないという現実にも不安を感じるようになった。 彼女に去られた後にも何人か彼女ができたが、以前のように相手を愛し切ることができなかったように思う。これまでまったく意識していなかったが、今これを書いていてふと思う。僕にはあの失恋がずっと尾を引いているのかもしれない。「トラウマ」になっているのではないだろうか。 恐らくそうなのだろう。ただこれは、彼女をつかまえておけなかった僕にも責任がある。そもそも僕は子供の頃から自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手だった。 |
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東京都立富士高等学校 全日制 | 卒業 | 昭和49年4月入学|昭和52年3月卒業 |
【説明】その頃、都立高校には「学校群制度」というのがあり、受験生はそれに苦しんだ。希望校に直接、出願できないのである。僕は、都立西高を第一志望としていた。都立日比谷高と並んで、毎年東大に100名も送り出す超進学校だったからだ。都立西高と都立富士高は「32群」という学校群を形成していたが、結局僕は、都立富士高に振り分けられてしまった。(卒業時、都立富士高の東大合格者数は42名だった) |
※(CLICK!)すると卒業証明書、学業成績表、在籍証明書が表示されます。
8. 僕のルーツ
7-1. 僕が生まれるまで
母は、芝大門の増上寺の周辺で育った。近くには都電が走っていた。路面電車である。最寄りの停留所は、金杉橋といった。
母の父親つまり僕の祖父は、そこで運送業を営んでいた。数キロ離れたところには、輸入車販売業のヤナセ本店があった。その頃の車といえば、外車と決まっていた。国産車を購入しようにも、日本国内にはまだ自動車産業というものが育っていなかった。祖父は、米フォード社製の小型トラックを購入し、家業に使っていた。
母は、ヤナセへ赴く父親(僕の祖父)について行き、店舗内のフロアでよく遊んだという。贅沢だけの目的で外車を求める時代ではなかった。そんな社会情勢だったから、車を使った商売は、競争力のある仕事だったのだろう、と思う。
祖父は大学など卒業していなかったが、とても頭のいい小学生で、尾崎行雄・東京市長から、成績優秀により表彰状をもらったほどだ。その頃、東京はまだ「都」にはなっておらず「東京市」であった。
下町育ちの祖父は気っ風のいい人柄だった。「今日は鰻を食べるぞ!」と掛け声を発すると、向こう三軒両隣のご近所さんも引き連れて、老舗の暖簾をくぐった。
日本では、「第2次世界大戦」(1939年‐)という言葉は、基本的には、使わなかったように聞く。代わりに「大東亜戦争」※といった。第2次世界大戦の中でも、1941年(昭和16年)以降の、極東アジアでの戦争に特化した言葉だった。
※日本では内閣の決定で「大東亜戦争」と呼ばれていた。陸軍もこの呼称を強く推した。「大東亜共栄圏」――日本国が、中国・台湾・朝鮮などの、極東アジアの共存繁栄を推進しつつ、鬼畜米英の侵略政策からそれを守るという考え方――があり、これは日本の帝国主義を正当化するものだった。敗戦後、進駐軍の決定で、「太平洋戦争」という呼称が用いられるようになった。海軍は、戦時中から、太平洋戦争という呼称を推したが、陽の目を見なかった。
1942年(昭和17年)にも1度、アメリカ軍機B-25による日本本土への空襲※はあった。被害は小さくなかったが、いわゆる「本土空襲」が本格化するのは、終戦を翌年に控えた、1944年(昭和19年)末である。
※ドーリットル空襲で、1942年4月18日のこと。名称は、作戦を指揮したジミー・ドーリットル中佐による。B-25、16機で、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等に空襲を実施した。主に民間の被害だった。だが、日本軍に与えた衝撃は極めて大きかった。
ドラマや映画で、人々が戦火の中を逃げ惑う緊迫した様子が描かれるが、あれはこの時期の日本である。東京だけではなく、地方の都市も、米軍機 B-29には徹底的にやられた。B-29は、B-25の後継機である。
戦火が激しさを増すと、祖父は母たち家族と共に地方に疎開した。場所は、今では「北関東の小京都」と呼ばれる栃木県足利市である。一家は、祖父と祖母の間に、母を含め4人の子供がいた。母が長女で、下は3人兄弟だ。
足利市内の大町という町で、祖父が立ち上げたのは、金属加工の工場だった。会社は、有限会社東亜アルミといった。当時の世相を反映した社名である。アルマイト(酸化アルミニウム)を使って、薬罐、鍋、灰皿、急須などをつくる。近くには「足利学校」や「大日様」(足利尊氏の居城、正式名称は、鑁阿寺)があった。
工場での作業工程だが、まずアルマイトの薄板を仕入れ、プレス機で、急須だの鍋だの灰皿の形に押し出して、細部まで整える。次に、リベット打ちで、薬罐や鍋の取っ手を取り付ける。急須の注ぎ口などは、溶接で付ける。溶接痕は、バフ研磨で均して平らにする。最後に製品の表面を極細の研磨布でハブ研磨し輝きを引き出してやる。色を付ける場合には、電気分解槽に漬け込んで「電着」を行なう。そうやってできた製品に「取り扱い説明書」などを添付し、ダンボール製の化粧箱に詰める。それを、工場のダットサントラックに積み込み、問屋まで収める。
工場の従業員も含め総勢20名にも満たない零細企業だったが、戦前も戦後も、景気は悪くなかった。世の中が物不足だったからだ。
母は、同じ北関東の群馬県羽生市に育った父と見合いした。栃木県足利市と群馬県羽生市とは、1級河川である利根川を挟み、北と南で近接している。父は、貧しい家の出だったが、話が上手く面白いところを祖父に気に入られた。母も父のそんな人柄を憎からず思ったという。
僕の生まれた場所は、東京は五反田の関東逓信病院(現・NTT東日本関東病院)である。すぐ近くには池田山や御殿山という高級住宅街も控えている。皇太后美智子様のご実家がその池田山にあった。
赤ん坊の住まいは、中野区野方にある、電々公社の1DKの官舎だった。鉄筋コンクリート造4階建てのアパートである。父はその頃、電々公社(現・NTT)に勤務する公務員だった。
そこで小学1年生の1学期までを過ごした。野方官舎で一番印象に残ったのは、当時の白黒テレビで、東京オリンピックを観戦したことだ。旧チェコスロバキアの体操選手・チャスラフスカの美しさが今も脳裏を過る。僕が小学校へ上がる直前の秋のことだった。
その後は、同じ中野区内の千代田町というところに引越をした。近くには営団地下鉄の中野富士見町駅があった。やはり電々公社の官舎だったが、今度は2DKだ。結局僕は小学生時代の大半をそこで過ごすことになった。
2024.05.13
小倉 一純
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7-2. 父の生い立ち
前セクションでは、母の生い立ちについて触れたので、このセクションでは、父の生い立ちについて書いた作品を掲載した。