📍小倉一純

データと文章で綴る自己紹介

1. 文学賞受賞歴

 

 

2. 資格・検定・その他の賞

 

検定・講座・コンクール 主催者 取得時期
日本語文章力3段 取得 日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)  2024年3月
【説明】※日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)で「日本語文章力 3段」を取得した。第18回 「文芸思潮」エッセイ賞で奨励賞となった作品「絶望から希望へ」が評価された。お言葉をいただいた。
⇒ 小倉さんの今回のエッセイはとてもよく、もっと高評価されるべきものと思い、三段とさせていただきました。この気概があれば、さらに上を目指せるものと思います。あらためて、小倉さんの深く高い志を知ることができ、深く敬意を表します。これからも頑張ってください。――2024.04.12    日本語文章力検定協会 五十嵐 勉
日本語文章力 初段 取得 日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)  2023年2月
【説明】※日本語文章力検定協会(共催 文芸思潮)で「日本語文章力 初段」を取得した。第14回 「文芸思潮」エッセイ賞で佳作となった作品「ステンレス鋼」で受験した。精査の結果、優秀賞に次ぐ出来映えであると再評価された。
公募スクール実践講座 島田雅彦の純文学講座 (株)公募ガイド社 2021年3月

【終了賞】※島田雅彦の純文学講座 終了証←CLICK!


【説明】島田雅彦『小説作法ABC』新潮社、2009年3月25日.を教科書として用い、受講者は各セクションを終了する毎に課題を提出する。所定の過程が終わると、終了証が授与される。この教科書は、2007年に島田雅彦氏が法政大学で行った文学Ⅰ、Ⅱの講義がベースとなっている。僕が終了証を受け取ったとき、世の中はコロナウイルス感染症の渦中にあった。公募ガイド社の配慮で、島田氏の特別講演が、自邸から、オンラインで配信された。終了後、質疑応答が行われた。「先生が一番尊敬する文学者は誰ですか?」の問いに対して「ベタな答えですけど、僕の場合は、やはりトルストイです」と回答した。島田氏は、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業である。最後に、「僕も常に自分は弱者であるというスタンスから物を書いています」と締めくくった。

・英検2級一次試験(筆記・リスニング)合格 公益財団法人 日本英語検定協会 1985年
【説明】大学卒業後、製鉄会社(現在の日本製鉄)に入社した。新入社員教育の一環として、社内(製造所)で英会話の研修が行われた。成果を確認するため、社命により、大卒同期全員が英検2級を受験した。旧日本金属工業の同期は十数名だったが、その8割が一次試験(筆記・リスニング)で不合格となった。京大、東北大、九大、筑波大、北大、慶應、学習院など、皆、名立たる大学を卒業している割には、随分と情けない結果だ、と正直思った。もっとも、こちらにもそんなことをいう資格はない。かくいう僕も二日酔いを言い訳に、2次試験(面接)を受けなかった。――内心、自信がなかったのだ。男の風上にも置けない自分であった。
・東京都「緑の週間」ポスター入選 現・東京都緑化推進委員会 1972年
【説明】中学2年生のとき、担任は美術大学出身だった。そんなことが関係したのか、僕は東京都「緑の週間」のポスターに応募することとなった。結果、図らずも入選してしまった。
・第2回 カワイ音楽コンクール全国大会 ピアノ中級部門  委員長賞  (株)河合楽器製作所 1969年8月

【当時の動画】※当時の動画|富士録音がレコードを作成。音源は、それをデジタル化。←CLICK!


【説明】(株)河合楽器が音楽コンクールを始めて2回目の全国大会だった。場所は、上野の「東京文化会館」。クラッシック音楽のメッカだ。その小ホールに置かれた、シュタインウェイの最上級グランドピアノで腕を競い合った。小学4年生の僕は、中級部門のトップ(中級|委員長賞)を勝ちとった。審査員のひとりであるクロイツァー豊子(ピアニスト)からは、僕を大会最優秀者としよう、との進言がなされた。大会規約では、上級部門のトップ(上級|委員長賞)が大会全体のトップとなる、と定められていた。審査員などで合議の結果、惜しくも、進言は却下となったが。この大会の受賞者は、大手新聞の地方版などで報じられた。僕と同じ中級部門で、3位(努力賞)をとった男子は、その後、音楽大学で教鞭をとる指導者となった、と風の便りに聞く。なお、クロイツァー豊子は、指揮者でありピアニストのレナード・クロイツァーの妻である。その後僕は、河合楽器音楽教室の女性教師から、NHKピアノ教室の生徒としてテレビ出演することを打診されたが、お断りした。さらには、指揮者・近衛秀麿(首相・近衛文麿の弟)の模範レッスンの生徒にも選ばれ、鬼怒川のホテルの会場でピアノを披露した。壇上では、近衛秀麿から懇切な指導を受けた。最終的には、前述の音楽教室教師から、藝大受験を勧められた。その前段階として、藝大の教授を紹介され、「この子なら弟子にとってもいい」と内諾をいただいた。しかし、音楽の道は投資した金額の割には成功することは稀だ。音楽家は三代続いてこその才能である、とまでいわれる。結局、両親の意向により、平凡なサラリーマン人生を選択することとなった。もっとも僕の場合、そのサラリーマンでさえ、全うすることができなかった、という落ちがつく。なお、大会は、現在まで継続して行われている。あれから55年が経ち、僕は文筆家修行に身を投じている。

3. 心に留めている言葉

 

4. 文章修行

  

4-1. 媒体露出歴(作品掲載歴)

媒体名 タイトル 作成時期
国立国会図書館※1 00.  『私の作品集 2016』(01. ~05. の合本) 2016年12月
国立国会図書館

01.  『短文で綴る自分史』

2016年12月
国立国会図書館 02.  「幸福塾の想い出 ― 標高700mの農園 ―」 2016年12月
国立国会図書館 03.  『父のエピソード ― 父の自分史 ―』 2016年12月
国立国会図書館 04.  「第2回 カワイ音楽コンクール 全国大会」 2016年12月
国立国会図書館

05.  「アスペルガー症候群」

2016年12月
国立国会図書館

06.  『編集後記・私の発達障害』

2016年12月
国立国会図書館

07.  『私の作品集 2017(初夏版)』

2017年 初夏
随筆春秋第49号※2 「仕事をさせていただきます」  2018年03月
随筆春秋第50号 「春分の日 ――寒さの中で思い出すこと」 2018年09月
随筆春秋第51号 「ニクロム線」 2019年03月
随筆春秋第52号 「名古屋の母」 2019年09月
文芸思潮75号 「ステンレス鋼」  2020年 春
随筆春秋第53号 「犬走りを行く」  2020年03月
随筆春秋第54号 「随想・兵どもが夢の跡」 2020年09月
随筆春秋第55号 「夢、追いかけて」 2021年03月
随筆春秋第56号 「札幌のホテルと受験時代」 2021年09月
随筆春秋第57号

「ラストスパート」

2022年03月
随筆春秋第58号 「父、東京へ ――苦学の思い出」  2022年09月
随筆春秋第59号 「ずっと小説家になりたいと思ってきた」  2023年03月
文芸思潮91号 「絶望から希望へ」 2023年03月
随筆春秋第60号   2023年09月
随筆春秋61 「製鉄所と彼女」 2024年03月

【説明】随筆春秋 代表理事 池田 元 氏より講評をいただいた。⇒ 随筆春秋第61号掲載の御作ですが、日常の通勤風景の描写からスタートして、作家の思索が生命哲学と申しますか、むしろ宗教的内容にまで到達します。読者をあっという間に日常から星空にまで放り出す技法は天賦の才であり、佐藤愛子先生がよくおっしゃる「作家脳の持ち主だからこそできること」だと思いました。御作に対する会員の皆さんの感想が楽しみです。2024.3 池田 元

随筆春秋第62号 「父にとっての山崎富栄さん」 2024年09月
【説明】随筆春秋 代表の近藤 健先生より好評価をいただいた。⇒ 62号掲載「父にとっての山崎富栄さん」も秀作だと思います。『ベストエッセイ集』(日本エッセイスト・クラブ編 文藝春秋刊)が存続していれば、間違いなく収録される作品だと思います。2024.9.1 近藤 健
(※有名作家と素人作家、同人作家などが肩を並べて秀作を披露していた)
随筆春秋第63号 「工場」 予定
随筆春秋第64号 「我が家と古戦場」 予定

4-2. SNSやWebに掲載

 

4-3. テキスト形式で習作を保存 

テキスト形式の習作を常に書きPCに保存。2024年8月17日時点で1610作品。以下はその一部。第1作目を書いたのは2017年11月12日。作品名は、「ヤマザキパン」

 (画像クリック↑)

4-4.  筆写

 

4-5. 文学賞に向けた作品づくり 

 

4-6. Wikipedia編集者として

Wikipediaに承認された編集者として、記事の立項や加筆修正に勤しんでいる。記述範囲は純文学、企業情報、科学技術など。

 

4-7. website作成者として 

 

5. 職業歴

 

会社名

業種

入社、退職など

一般社団法人 随筆春秋

純文学同人(エッセイ)

2017年11月入会

【説明】第23回 随筆春秋賞に応募し、図らずも「奨励賞」をとった。それを契機に同年11月、当時事務局長を務めていた池田元氏にすすめられ、同人誌 随筆春秋(一般社団法人 随筆春秋)の会員となる。

【入会前後の時代背景】2001年から2016年の間、僕は、失われた15年を過ごす。会社での無理が原因で体調を崩し自宅療養の日々を送った。当時の世相も同期間を「失われた15年」と呼んだ。ちなみに、1986年に起こったバブル景気は、その後1991年から1993年が「バブル崩壊期」と呼ばれる。ジュリアナ東京は、その1991年に開業している。バブル崩壊直後の1994年、日本のサラリーマン平均年収は過去最高値をマークした。その後2006年に発足し紆余曲折を経て2020年まで続いた安倍内閣のもとで「アベノミクス」が積極展開された。日銀の量的緩和政策が目玉だった。日本経済の右肩上がりへの回復も、気持ちの上では期待されていた、と思う。世にいう「失われた15年」とは、僕の考えでは、2000年から2015年の15年間であり、それはその後、「失われた20年」となり、2024年現在では、確定的に、「失われた30年」(バルブ崩壊直後の1994年から2024年)と呼ばれている。さらに現在、日本の経済は、円安インフレ傾向を示している。G7(主要7か国蔵相会議)から陥落する可能性も大である。

【付録|僕の人生と日本経済】ちなみに僕と日本経済の推移は以下のようにリンクしている。◆「高度経済成長期」の最中に僕はこの世に生を受ける。◆高校入学の頃、中東戦争が引き金となり、日本経済は「安定成長期」へと移行する。◆その後、僕が28歳を迎えた1986年、時代は狂乱のバブル景気へと突入する。タバコを買いに500m先の店までタクシーに乗り1万円札で支払い「おつりは要らない」といって下車するつわものも出現した。◆33歳となった1991年には、お立ち台で有名な「ジュリアナ東京」が開業するが、その背後では密かにバブル景気はかげりを見せ、1993年は、そのバブル景気の終焉の年となる。◆その後2000年まで、日本経済には紆余曲折もあったが、国内ではまだ、右肩上がりの日本経済が復活すると考える人々もいた。僕もそのひとりだった。その2000年に僕は42歳となった。この年は、無理から体調を崩し、サラリーマン人生を諦めた節目でもある。◆結局42年間、僕は、期待も含めて、経済が右肩上がりの時代を生きて来た。◆その後の「無成長の時代の風」を感じることができず僕は苦慮していたが、最近やっと目の前の時代を実感として感じることができるようになってきた。2024年現在、僕は60代も半ばを迎えている。

日本エア・リキード合同会社

化学(産業ガス・機器製造)

2000年 42歳 正社員 で 退職

【説明】前職に引き続き、営業職を希望して入社した。産業ガスを製造するメーカーだった。医療用のガスを販売することとなった。主な取扱商品は、MRIに充填じゅうてんする液体ヘリウムである。MRIとは病院に設置された画像診断装置のこと。その翌年、当時、虎ノ門にあった本社内の子会社へ出向となる。役所に提出する文書や、自社の製造した機械の取説とりせつ(取り扱い説明書のこと)など、文章を書く仕事が多かった。こういう仕事は好きだなと思った。が結局、体調を崩し、筑波山麓の工場へ転勤となり、現場仕事に汗を流すこととなる。

当時、日本エア・リキードの社長は佐藤康夫氏であった。一方、大学時代を共に過ごした忘れ難い友人といえば、佐藤正道君である。彼は、参天製薬の役員として会長の右腕となり、その辣腕ぶりを発揮していた。偶然にも同じ佐藤姓を持つ2人だったが、仕事を通じて友人関係を築いていた。日本エア・リキードも製薬業界とオーバーラップする分野に進出していたのだ。僕はといえば、その日本エア・リキードの筑波工場で、一介のブルーワーカーよろしく働いていた。幼い頃、父によく「お前のような怠け者は人生の落伍者になるぞ」と発破をかけられたものだった。まるで呪いの言葉のように、それは現実のものとなった。旧帝大を卒業し、もがきあがくように会社員生活にしがみついたが、結局、最後に得たものはそういう立場であった。しかし、奇妙なことに、僕はある種の痛快さを覚えていた。それは、まるで荒波にもまれた小舟が、ようやく嵐の後に穏やかな入り江を見つけたような、安堵にも似た感情だった。「俺もとうとうここまで来たか!」。それは、自嘲と諦念、そして奇妙な達成感の入り混じった、複雑な感情の叫びだった。

SMC株式会社

精密機械(空気圧機器)

1991年3月 中途入社(正社員)

【説明】会社は精密機械を製造していた。苦手克服との思いから営業畑を希望し、そのとおりの採用となった。まるで受験生の発想である。時代はバブル景気を迎えていた。ちなみにバブル景気とは1986年に始まり1991年‐1993年がその崩壊期。時代の象徴は、「ジュリアナ東京」(ディスコ)の「お立ち台」。会社の経費を使い、顧客と飲むことが、上司から褒められたのは、この時代だけである。僕は機械オタクだったが、へそ曲がりで、仕事となると、自社が製造する製品の型番などを覚えるのが嫌いだった。

日本製鉄株式会社

鉄鋼業

1984年4月新卒入社( 〃 )

【説明】経理を希望する文系新入社員が皆無だったところ、「まぁ経理でもいいかッ!」と独り言をいったらそこを総務部長に見つかり、経理課員とされる。とりあえずは簿記とは無縁の、積算と作表の仕事だった。原価計算係である。大卒新入社員の初任地は製造所(工場)と決まっていた。当時はバブル景気の前で日本の経済は右肩上がりだった。定期昇給1万円、ベースアップ1万円、年間の給料はボーナスも含めて17ヶ月分というスタンダードが存在した。そんな中でも鉄鋼業は構造不況以来、斜陽産業だった。

6. 研究歴(新規追加)

 

 

7. 学校歴

 

学校名 卒業、中退 入学、卒業
北海道大学 経済学部 経済学科  卒業 昭和54年4月入学|昭和59年3月卒業
【説明】父が日本電信電話公社(通称:電々公社|現NTTの前身)に勤務していた。前身は、逓信省(ていしんしょう)という中央省庁である。そういう背景もあり、電々公社の幹部クラスは、旧帝国大学出身者が占めていた。僕は、旺文社の「蛍雪時代」という受験雑誌を読み、北大の蛮カラな校風に憧れを抱くようになっていた。北大も旧帝大である。経済学部を選んだのは、潰しが利くから。その頃の僕には将来に対するビジョンなどまったくなかった。
日本大学 農獣医学部 獣医学科  中退 昭和53年4月入学|昭和53年9月中退

【説明1】
タイトル「初恋の彼女」
半世紀も前の話である。高校2年生の3学期、席が隣り同士になったのが縁で彼女ができた。彼女の父親は、東京医科歯科大学出身の歯科の開業医だった。そんなことへの忖度もあり、成績の悪かった僕は獣医学部に進学をした。僕は犬を飼っていて動物が好きだったが、獣医師になるのだ、という強い気持ちがあったわけではなかった。受験直前、僕はその彼女に振られた。

彼女は、付き合っていた頃によく「わたしぃ、絶対にッ、サラリーマンの奥さんにはなれないと思うの」といっていた。あれはどういう意味だったのだろうか。彼女は結局、国家公務員と結婚した。

失恋は、40歳を迎える頃まで僕の人生に暗い影を落としていた。あの頃は、彼女と結婚することを心に決めていた。

彼女が僕を振った理由は、僕の浮気だったという。予備校時代、僕はある時期ほぼ毎日、友人の彼女と一緒の電車で帰っていた。彼女も代ゼミに通っていた。僕は、西武池袋線沿線だったが、その彼女に合わせ、西武新宿線に乗った。そのせいで、毎晩、西武新宿線の鷺宮から西武池袋線の中村橋まで、北へ向かって1時間半、歩くことになった。都心と郊外とを東西に結ぶ2本の西武線の軌道は、ほぼ平行に走っている。僕はその彼女とデートはおろか、手さえつないだことはない。

「わたし知ってるんだからッ」と、彼女は僕とその彼女のことを誰かから告げ口されて知っていたようだった。彼女は、僕の受験を理由に、1か月に1度ぐらいしか会おうとしなかった。素敵な女子が傍らにいれば、電車ぐらい一緒に乗りたいと思うのが人情だろう。それ以上のことを要求するのであれば、僕は出家でもすればよかったのだろうか。

僕は獣医学科を辞めた。失恋した以上、そこに留まる必要はなかった。それだけが理由ではない。生物の解剖実習や、動物と向き合う中で、獣医師という職業の厳しさを実感した。また、6年間の勉強を終えても、国家試験に合格しなければ獣医師になれないという現実にも不安を感じるようになった。

彼女に去られた後にも何人か彼女ができたが、以前のように相手を愛し切ることができなかったように思う。これまでまったく意識していなかったが、今これを書いていてふと思う。僕にはあの失恋がずっと尾を引いているのかもしれない。「トラウマ」になっているのではないだろうか。

恐らくそうなのだろう。ただこれは、彼女をつかまえておけなかった僕にも責任がある。そもそも僕は子供の頃から自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手だった。

 

【説明2】

タイトル「僕の人生の覚書」

僕に人生で初めての彼女ができたのは、高校2年も終わりの頃だった。春が来て3年生になったら、もう、今のように彼女の隣りに座っていることはできないだろう。富士高では毎年クラス替えが行われていた。焦っていた。なんとかしなければ。そこで思いついたのが、手紙作戦。お菓子屋で購入したロッテのチューインガムを一旦開封し、中のガムを1枚抜き、空いたスペースに小さな紙片の手紙を挿入しておく。これならきっと上手くいくだろう。
「君に惚れた」
下手な文字でこれだけ書いた。翌日、登校して、1時間目が始まる前に、そのチューインガムを隣りの彼女に渡した。彼女も、こちらの目論見に薄々感づいているような素振りだった。さらにその翌日、また登校して、着席すると、彼女がこちらを振り向いて、こっくり頷いた。目出度くカップルの誕生となった。
それからの僕は毎日が有頂天だった。世界にこれほどかわいい存在はないだろうと、浮足立った僕の頭の中は、一足早く、すっかり春になっていた。
それ以降の彼女との進展については紙面には書きにくい。大方の若いカップルと、ご同様であったと思う。説明するまでもないので、ここでは割愛する。
その彼女との結末の詳細は以前にも書いたとおりである。
女性遍歴などと大袈裟なことは何もないのだが、僕の人生も残りが大分少なくなってきたので、この際書きとどめておこうと思う。

・高校2年3学期、クラスメートの女子とカップルになる。2年ほど続いた。開業歯科医の娘だった。翌年2月に受験を控えた年末に彼女から別れを告げられる。
・獣医学科に進学し、同級生の女子と仲良くなる。彼女の両親は熊本にいて、2人とも教員をしていた。僕らが獣医になった暁には、熊本市内で獣医科クリニックを開業する目論見なのだと彼女はいう。「一度、熊本の両親と会ってね!」といわれた。そこまで話が進んでいるのか、とちょっと驚いた。だが、僕は結局、獣医学科を半年で辞めた。彼女との関係もそこで終わった。
・製鉄会社に入社し、相模原の製造所(工場)に配属となり、同じ経理課の女性と親しくなる。僕は26歳になっていた。29歳の時、僕は体を壊し、彼女と将来の夢を描けなくなった。僕の一方的な考えで、彼女とは別れた。
・高校時代の親友の奥さんがお産で入院し、担当の看護師さんを紹介された。29歳から1年ぐらい付き合った。僕の体調はあまりよくなく、結局、僕が彼女を一方的に振った。
こう考えてみると、僕はなんてひどい男なのだろうと思う。最初の彼女には振られたものの、後は僕の自己都合である。

その後、30歳以降の僕の人生は、ただ会社にしがみ付くだけの生活だった。30代では2度の転職をした。鉄鋼業から精密機械、そして産業ガスへと渡り歩いた。それも結局42歳男の厄年で限界となり、2000年のミレニアムでお祭り気分の世間を尻目に僕は自分の会社員人生にピリオドを打った。

今考えてみると30歳から42歳までの僕の人生は一体なんだったのだろうか、と思う。どの企業も正規雇用であったが、体調を崩していては、出世の見込みはほぼゼロに近かったと思う。それでも僕は自分に負けたくない一心で、会社にしがみ付いていた。それが僕の人生にとって、まったく無駄なことだったのか否か、今もって答えが分からない。

その12年間、僕は会社と自宅あるいは実家の往復のみで、社会人ではあるものの、世の中との関係をあまり持っていなかった。そんな名称はこの世に存在しないが、敢えていえば、「引きこもり会社員」であったと思う。

42歳からは15年間、自宅療養を余儀なくされた。近所のメンタルヘルスクリニックに通院しながら、毎日、寝そべってテレビを観る生活であった。生活費の面倒などすべて両親に頼っていた。つくづく思った。両親には北大まで卒業させてもらいながら、なんと役立たずな自分なのだろうと、自分の不甲斐なさを毎日呪っていた。

30歳以降、僕は徐々に孤立していった。親戚との関係も例外ではない。両親はそれなりに連絡を取っていたようだが。気がついてみると、従兄妹たちは皆結婚して所帯を持っていた。従兄妹の配偶者やその間に出来た子供ら、つまり従兄妹姪、従兄妹甥らは皆、優秀である。結局、僕の身内には現在、ドクターが5人もいる。

・筑波大医卒    北関東で総合病院の副院長を務める。循環器。50代
・群馬大医卒    群馬大学病院勤務。救命救急。30代
・群馬大医卒    群馬大学病院勤務。病理学。30代
・金沢大医卒    金沢大学病院勤務。泌尿器科。30代
・杏林大学医在学  そろそろ卒業か。20代
・東邦大薬学卒   薬剤師として働いていると思う。30代
・関大・早大理工博 室蘭工大金属材料工学教授。数年前60代で物故
・お茶女・群大工博 国学院女子短期大学繊維材料工学教授。50代 
(以上2024年12月現在)

彼らとはまったく疎遠であったが、最近は、中元・歳暮のやりとりぐらいは行うようになっている。今時の成績優秀な子は、こんな世相を反映してか、多くの収入を望めるドクターを目指す子が多い。僕らの時代には東大‐中央省庁・一流企業というエリートコースが存在した。それにしても、僕の身内には医療従事者が多く、むかしの彼女にも、医療関係者が多かった。どういう巡り合わせなのだろうか!?

東京都立富士高等学校  全日制 卒業 昭和49年4月入学|昭和52年3月卒業 

【説明】その頃、都立高校には「学校群制度」というのがあり、受験生はそれに苦しんだ。希望校に直接、出願できないのである。僕は、都立西高を第一志望としていた。都立日比谷高と並んで、毎年東大に100名も送り出す超進学校だったからだ。都立西高と都立富士高は「32群」という学校群を形成していたが、結局僕は、都立富士高に振り分けられてしまった。(卒業時、都立富士高の東大合格者数は42名だった)

8. 僕のルーツ

   

※日本では内閣の決定で「大東亜戦争」と呼ばれていた。陸軍もこの呼称を強く推した。「大東亜共栄圏」――日本国が、中国・台湾・朝鮮などの、極東アジアの共存繁栄を推進しつつ、鬼畜米英の侵略政策からそれを守るという考え方――があり、これは日本の帝国主義を正当化するものだった。敗戦後、進駐軍の決定で、「太平洋戦争」という呼称が用いられるようになった。海軍は、戦時中から、太平洋戦争という呼称を推したが、陽の目を見なかった。

※ドーリットル空襲で、1942年4月18日のこと。名称は、作戦を指揮したジミー・ドーリットル中佐による。B-25、16機で、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等に空襲を実施した。主に民間の被害だった。だが、日本軍に与えた衝撃は極めて大きかった。

   

足利市の鑁阿寺。地元では大日様と呼ばれる。周囲には堀が巡らされている。
アルマイトの薬罐。Wikipediaより
ステンレス普及まで主流だった。
旧電々公社官舎(旧有島邸)http://nakano-nabeyoko.gr.jp/monogatari/chapter1/1-4-5.htmlより

1967年ヨーロッパ選手権のチャスラフスカ
東京オリンピックは1965年秋
父、東京へ 苦学の思い出.pdf