The Originator

画像はイラストACより

随筆春秋「会員の部屋」

一九九〇年代半ばのある夜のことだった。
当時住んでいたニューヨークのアパートに、同級生から電話がかかってきた。その頃、高額な国際電話をかけて来るのは母ぐらいしかいなかったので、なにか特別な用事があることは察しがついた。
せっかくの電話でも、のんびり話して後で痛い目に遭うのが心配で、お互いつい早口になり、すぐに本題に入った。
「ゆき、あのね、今、ルーズソックスの元祖を探す、っていう番組を作ってるのね。それで、どうもゆきがそうみたいなの」
彼女がテレビ番組の制作の仕事をしていることは、帰省した際に聞いて知っていた。
 
当時、ルーズソックスはコギャルと呼ばれる女子高生の間で大ブームになっていた。太いリブ編みの、白くて分厚いハイソックスをたっぷり弛ませ、厚底靴やローファーとコーディネートするのが彼女たちのお決まりのファッションだった。
その元祖が私かもしれないと言われ、私は仰天し、思わず吹き出してしまった。
そして、彼女はちょっと申し訳なさそうに、その経緯を説明してくれた。

ルーズソックスは、アメリカのスポーツソックスがその原型だと言われている。それでは、一体いつどこで誰が、それをルーズソックスの形にして履いたのか。その答えに辿り着こうと時代を遡り、いろいろな資料を調べてみた。すると、一九八〇年代半ばに撮影された写真に写っている、高校生のゆきがルーズソックスによく似た靴下を履いていた。その写真の日付が一番古く、それ以前のスナップ写真や雑誌には見当たらない。だから、ゆきが元祖に違いない、と言うのだ。
要は、身近にいた私をルーズソックスの元祖ということにして、面白おかしくテレビ番組で紹介しよう、ということらしかった。
「そんなのおかしいよ。困るわ」
「あのね、実はもう、他の子の証言ビデオを撮影させてもらっちゃったの。電話インタビューだけでもお願いできないかな?」
それは、何事にも真面目で一生懸命な彼女に課せられたミッションだった。それでも、当時の私は転職したばかりで忙しかったし、この真偽不明の情報をもとに、元祖に仕立て上げられることには抵抗があった。
「ごめんね。やっぱりできないや」
と言って依頼を断り、電話を切った。
 
私の母校は、幼稚園児から大学院生までが同じ敷地内で学ぶ、共学の一貫校だ。中学と高校の六年間、男子は昔の名残で制服があるのに、女子は私服であるのが独特だった。特に高校時代の女子の服装はかなり自由で、お洒落を楽しむこともできたが、校則で靴下の色は白と決まっていた。赤い靴下など履いていけば、すぐに先生に注意され、先輩には睨まれた。それを覚悟で色靴下を履いていく子もいたが、私は白い靴下が好きだった。
同級生のほとんどは、ふくらはぎと足首に密着する、リブの編み目が細く詰まった靴下を履いていた。そういう靴下は、足首だけは跡ができるほど締め付けが強いのに、そこから上はずり落ち易くて嫌だった。中には、ずり落ち防止のための「ソックタッチ」というスティック状の靴下糊を持ち歩く子もいたが、私はこの皮膚に塗る糊が、鳥肌が立つほど気持ち悪くて大嫌いだった。だから私は、お気に入りの輸入雑貨店でリブが太めの靴下を買い、脚にピタッと密着しないよう、それを少し弛ませて履いていた。
そうだ、私の靴下は確かにみんなとは違っていた。私の記憶が次第に蘇ってきた。
 
ニューヨークの新しい職場での昼食は、デリバリーやテイクアウトをして、みんなで一緒に食べることが多かった。ランチタイムの会議室は、ゴシップや雑談で盛り上がった。
同僚の国籍は、半分が日本、半分がアメリカ、カナダ、イギリスなどで、社長は日本とアメリカのハーフだった。私がランチタイムに同僚に漏らしたエピソードを聞きつけた社長は、流暢な日本語で、
「ゆき、ルーズソックスの元祖なんだって? どうして取材断っちゃったの?」
と少し不満げに言った。
その後、ロサンゼルス支社長からは、
「あのソックス、ゆきが発明したそうじゃない。登録商標を取って、ゆきの写真入りパッケージで売り出して、ひと儲けしよう」
と共同ビジネスまで持ちかけられた。
家族や友人には、
「元祖なんてなりたくてもなれるものじゃないんだから、やったらよかったのに」
「コギャルの元締めみたい」
「諸悪の根源だ」
などと言われた。
 
先日、「ルーズソックスブーム再来」というネット記事の見出しを読み、我が目を疑った。「平成レトロ」がトレンドだそうだが、その魅力など、今の私には到底理解不能だ。
もし私が女子高生に、
「私、ルーズソックスの元祖かも」
と言ったら、冷笑されるに違いない。
妄想おばさんになった私は、ほくそ笑まずにはいられない。これでいいのだ。