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岡目八目 その1
——事務局・近藤&池田と先生方との関係——
1. 前略
前略 いきなり現代国語の授業のようですが、タイトルの「岡目八目」とは、当事者より傍目の方がよほどよく事情を呑み込んでいるという意味です。そんな立場から不肖・正倉が綴らせていただきます。
2. 近藤代表と佐藤愛子先生
さて、近藤代表※の立ち位置は、佐藤愛子先生ご一家とは、半ば身内のような関係にあります。代表が46歳の時、当時随筆春秋代表であった斎藤信也先生にともなわれて、太子堂(三軒茶屋)の佐藤邸を訪れて以来のご縁です(中央写真参照)。もう20年にもなります。
【参考資料】※エッセイスト近藤 健 は、現在、一般社団法人 随筆春秋 代表(←click!)
愛子先生の別荘(←click!)がある浦河町と、近藤代表の実家があった様似町(←click!)はいずれも北海道日高地方の小さな町で、しかも隣町同士。そんな縁も手伝って、盛夏ともなると、近藤代表は必ず佐藤家の別荘を訪れ、パートナーのえみ子さんも交えて、家族ぐるみの交流を続けてきました。
浦河町や様似町の図書館には、佐藤愛子先生の著作や、随筆春秋の同人誌、近藤代表のエッセイ集などが納本されています。家族ぐるみの一団で訪問した際には、代表が記念の集合写真をFacebook経由で事務局に送ってくれたこともありました。
日高山脈の麓で襟裳岬の近くには「幻の湖」と呼ばれる豊似湖があり(トップ画像参照)、以前、佐藤愛子先生と娘さんである響子さんも含む3人で訪れたことがありました。足元に不安を感じていた愛子先生に、近藤代表が負ぶわせてくださいと前に進み出て、かがんでみせたところ、「いいえ、結構です」とキッパリ断られたという逸話が残っています※。
※ 近藤 健 書き下ろしエッセイ『つれづれなるままに、愛子先生(1)~(7)』
(2)北海道の太平洋岸に浦河町という……(←click!)
3. 池田さんのスタンス
一方、随筆春秋代表理事の池田さん※は、佐藤愛子先生とはあくまでオフィシャルな関係です。その点において、近藤代表とは一線を画しています。これは池田さん自身が、あるところでそう綴っています。
【参考資料】※池田 元 は、現在、一般社団法人 随筆春秋 代表理事(←click!)
4. 池田さんと佐藤愛子先生
池田さんの場合、怒りんぼで口の悪い愛子先生からの叱咤を受けるサンドバッグのような役目を担ってきました。
先生がまだお元気だった頃は、3か月に1度ほど太子堂の邸を訪れ、毎度のように怒られていたそうです。出来の悪い随筆春秋・会員の代表として、文豪・佐藤愛子から厳しい指導を受けるのが、池田さんのお勤めのようになっていました。次はどんなふうに怒られるのだろうかと考えすぎて、池田さんは体調を崩したこともあったと聞いています。
5. 池田さんと竹山洋先生
この構図は、脚本家の故・竹山洋先生(←click!)との関係にも通じていました。
竹山先生は業界でも「うるさがた」で知られ、外連味の強い人物でした。亡くなった、堀川とんこう先生 (←click!)は、TV業界では竹山先生の先輩に当たりますが、その奥様である、高木凛先生が池田さん宛てに送った手紙の中で、竹山先生を説明するのに、この「外連味」という言葉が使われていました。意味は、はったりの利いた大袈裟な——といったところです。
竹山先生からは3日に1度は電話がかかり、こんこんと説教をされることも珍しくありませんでした。
随筆春秋が文学賞で千円の手数料を取っていたのは、前任者の方法を疑問を持たずに踏襲した結果でしたが、それを竹山先生から「おい、池田さん」と突っ込まれました。
「竹山が素人から小銭を集めているといわれたら片腹痛いではないか!」
ご存じの通り、竹山先生はNHK大河ドラマ『秀吉』『利家とまつ~加賀百万石物語~』などを手がけ、高視聴率をもたらした大脚本家です。
「恥ずかしくて仕方ないよ」
「……はぁ」
「あの竹山が小遣い欲しさに関わっているなんて後ろ指差されたくないんだ!」
「ええッ……」
「芥川賞でも直木賞でもどこの世界に金を取る文学賞があるんだいッ」
この竹山先生の最後の言葉に、池田さんはハッとしたそうです。——オレは疑問を持たずに前任者の方法を引き継いでしまったが、しかし……。池田さんは、竹山先生の怒りに屈して審査料を無料にしたわけではありませんでした。随筆春秋賞をレベルの高い文学賞として育てるにはまずは無料化を決断すべきだというのが、池田さんのポリシーだったのでした。
6. 佐藤愛子奨励賞新設の経緯
5年前(2020 年)、「佐藤愛子奨励賞」を新しく設けたのもその一貫でした。90 歳を超えてなお新作を上梓し(佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』小学館刊、2016.8.6)、それが2百万部近い売上を誇る、日本文学界の重鎮で直木賞作家・佐藤愛子の名を冠した文学賞を、「随筆春秋賞」とは独立した形でこの世に送り出しました。今後の発展いかんによっては、主催者が「春秋の叙勲」そしてそれに続く「叙位」の対象となる可能性すらあります。自慢ではなく、そういう重みのある文学賞に育ってもらいたいというのが私たち——随筆春秋の切なる願いです。今後ともご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
前列男性 脚本家 竹山 洋 先生(左) 随筆春秋代表理事 池田 元(右)
2016年2月 随筆春秋会員が竹山先生ご自宅に訪問
(クリック↑すると竹山先生のアルバムが開きます)
7. 草々
さて、正倉の知る限りエピソードは他にもまだまだあるのですが、今回は紙面も一杯になりましたので、このへんで筆を置かせていただきます。では。
暑さ厳しき折柄 御自愛下さい。
草々
8. コラム:竹山洋先生の思い出
竹山洋先生は、2023年4月12日 コロナによる感染症で亡くなりました。新聞発表には、「敗血症性ショックのため死去」と書かれています。
入院当初、先生はとてもお元気で、元女優である奥様に「オイッ、病院で仕事するからパソコン持ってきてくれ」とお願いされたそうです——。佐藤愛子先生のご年齢からすれば四半世紀もお若い先生には、これからもまだまだ我々随筆春秋の面倒を見ていただこうと考えていた矢先でした。竹山先生ご自身もそのお心積もりであっただろうと拝察いたします。
ある時、随筆春秋賞の表彰式会場に、スーツにスポーツシューズという出で立ちで、息を切らして現れた先生がいらっしゃいました。よく見ると右の手の平が真っ青に染まっているではありませんか。先生は基本的に、愛用の万年筆で書かれます。恐らく依頼された原稿を朝まで練っておいでだったのではないでしょうか。
先生が文章に対して常に命がけであったことを象徴するようなエピソードです。
NHKのテレビニュースでお昼過ぎ、先生の訃報の第一報が流れるや随筆春秋事務局にはマスコミから何件もの問い合わせがありました。代表理事の池田元が電話で対応させていただきました。
早いものであれからもう2年以上が経つのですね。
——脚本家・竹山 洋。享年76歳。
(正倉一文)
9. 追伸:随筆春秋という名前の由来
「随筆春秋」と命名したのは、故・堀川とんこう先生でした。
先生は、東大を卒業し、TBSのプロデューサーとして『岸辺のアルバム』(←click!)という新しいタイプのドラマを世に送り出しました。山田太一の原作です。それは、正倉が高校を卒業した年で、当時は出版業界も右肩上がりの時代でした。
随筆春秋の創設者は 堀川とし(←click!)という女性実業家で とんこう先生の実母です。
とんこう先生は、その母親のブレインとして様々なアイデアを提供していました。ある意味、先生が実質的な創設者かもしれません。
「随筆春秋」という名称は、とんこう先生によると、「芥川賞」や「直木賞」で知られる「文藝春秋」を意識したものだといいます。このことは事務局内では口伝えで知られています。
なお、「春秋」というのは「春夏秋冬」と同じで、「一年中」を意味します。つまり「随筆春秋」とは「随筆三昧」という言葉に置き換えることができます。
毎年、春(3月31日)と秋(9月30日)に同人誌を出版するので、「だから随筆春秋ね!」といわれることもありますが、残念ながら、そうではありません。
編集履歴
2025年7月23日
2025年7月26日加筆
2025年7月27日追伸を追記
2025年8月1日コラムを追記
随筆春秋事務局長・正倉 一文
