二度と元には戻らない結末
古代文明において「奴隷」の労働力は必要不可欠でした。歴代の王たちは奴隷の扱い方に悩んで、側近に「どうしたら奴隷をうまく飼いならせるだろうか?」とたずねると
「簡単ですよ。私のように片目になればいいのです」
側近がいうには、右目の視力を失ってからは視界が狭くて、人と争う気力もなくなったというわけです。
「なるほど、それはいい」 と、次の日に奴隷たちの鎖が外されると、右目が見えないように針で一人ずつ目を刺したといいます。
「民」という字は「右を向いた人」の形で目の部分が白くなった様子を表しています。
「民」の上部の空白は白目を表していると同時に、奴隷たちの空虚さも表現しているのだともいえます。
マイケル・ドリフの児童文学「朝の少女」(新潮文庫、1997年)は南国の島を舞台にしていますが、エピローグには衝撃的などんでん返しがあります。かつて「兎の眼」で知られた、灰谷健次郎翻訳でも話題になりました。
朝の光の中で活躍する「朝の少女」と呼ばれる女の子と、暗躍を愛する「星の子」と呼ばれる弟。非文明社会の中で彼らには自然とともに悠久の時間が流れていました。
少女が母親に自分はどんな顔をしているのかと聞くと、母親は少女の手をとって自分のあごの線をなぞらせます。「母さんの口の方が大きいわ」「それは、あたしが笑ってるからよ、朝の少女」
鏡のない生活では、五感を使いながら他者との関係の中で自分を見つけさせるのでした。父親は少女を手招きします。ひざまずいて少女と同じ背の高さになり、「わたしの目の中をのぞいてごらん、何が見える?」ふたりの小さな女の子が自分を見返していることに気づいた少女は「この人はだれ?」「この子たちはいつもここにいるよ、会いたくなったらここに来ればいい」と父親は教えるのです。姉と弟それぞれの視点が短い章で交互に描かれていきます。
最終章では、少女はいつものように海へ行き、見たことがないカヌーに乗ってやって来た人々に出会います。少女は新しい友だちがやって来たとばかりに胸をときめかせます。島の住人たちに彼らを紹介しようとしたところで、物語は終わるのでした。
エピローグでは、すべてがひっくり返る結末が待っていました。異人たちは新大陸を求めてやってきたヨーロッパ人であることがわかるのです。裸で歩き回る住人たちは、友好の印として自分たちの持てるものを差し出しました。
これは「彼らは知性をそなえた良き召使になるのだろう」という、奴隷商人でもあった、コロンブスの1492年10月11日の記述とも一致します。
浜尾

制作|随筆春秋事務局

