ひまわり
佐藤ゆき(東京都)
先日、息子が十八歳の誕生日を迎えた。
私は彼が生まれる前から、子供には日本人らしい日本語を使えるようになって欲しいと思っていた。夫はニューヨークの大学で一緒に映画を学んだアメリカ人で、日本語が苦手だ。アメリカで育つ息子には、英語ができない私の両親と話せるようになって欲しかった。そして何より、日本の素晴らしさを知るために、必要な日本語を身に付けて欲しかった。私はいつのころからか、彼の日本語がセンター試験を受けられるレベルに達することが目標なのだと吹聴するようになっていた。
だから私は、夫や日本語のわからない周囲の人たちが不愉快に思っても、息子とは日本語だけで会話した。どこかが痛いと言えば、それが「ズキズキ」なのか「チクチク」なのか問いただし、幼い息子を悩ませた。「パトカー」のような和製英語を多用し、「ヘリコプター」などのカタカナ英語はそのまま発音した。時には男言葉で話すこともあった。
四歳になると、毎週土曜日に日本語学校の幼児部に通わせた。お遊戯や言葉遊びを習い、息子は嬉々としてその成果を披露してくれた。
ところが、小学部に進学すると事態は一変した。大量の宿題に追われ、金曜日の夜は修羅場と化した。漢字ドリル一ページに九時間かかる日もあった。練習帳は涙で濡れ、何度も書き直すので、歪んでボロボロになった。
しかし、いくら頑張ってもアメリカ育ちの子供たちは、集まるとつい英語で話し始めてしまう。これは危ういと思い調べてみると、日本の公立小学校には、一時帰国中の児童を受け入れる制度があることがわかった。役所と学校に連絡をして、六月末、私たちはニューヨークの学校が夏休みに入ると同時に帰国した。
約束の朝、実家から徒歩三分の小学校に着くと、校長室へ案内された。そこで担任と対面し、教室へ向かった。担任は、ニューヨーク土産の小さなお菓子を、規則だからときっぱり断る新卒とおぼしき小柄の女性だった。
私たちが入ると、教室はざわめいた。そして、自己紹介を終えた息子が着席するや否や、皆が彼の机に群がった。子供たちの黒く小さな頭の隙間から見える彼の頬は紅潮し、その歓迎の儀式に戸惑いながらも嬉しそうだった。
夏休みが終わりニューヨークに戻ると、息子は「日本の小学校に行って来たんだぞ、すごいだろ」と言わんばかりに、なんとなく態度が大きくなっていた。
その年の日本語学校の文集の作文は、夏の思い出一色だった。テーマは日本語学校での出来事であるべきなのに、作文のタイトルが日本の小学校の名前だった。
新しくできた友達と給食当番になれたこと。給食で一番おいしかったのは、鰻ごはんとそうめんだったこと。ニューヨークと違い、学校へは子供だけで歩いて行ったこと。プールの授業は嫌だったけれど、一人で着替えてシャワーを浴びたこと。とにかく、日本の小学校がいかにすごいところだったか延々と綴られ、「また行きたい」と結んであった。
彼の日本語がかろうじて学齢相応だったのは、他でもない日本語学校のおかげなので、私は申し訳ない気持ちになった。しかし、その一方で、これは大成功だったと確信した。
翌年の夏、私たちは再び小学校を訪れた。
正門をくぐると、息子に気付いた児童たちが次々と声をかけてくれた。校長室で前年の担任と再会し、繰り上がった同じ組に入ると知った息子はほっとした様子だった。
息子には心配ごとがあった。日本語学校の宿題のひとつ、ひまわりの観察日記のことだ。ひまわりを日本に持ち込むことはできず、日記は途中までしか書けていなかった。そこで、何か育てていたら、誰かのものを見せてもらえないかと尋ねると、担任は答えた。
「あの、もうあるんです。今年も来てくれたらいいね、ってみんなで話していたんですよ」
聞けば花壇には、他の児童のものに混じって息子のひまわりの鉢があるという。クラスのみんなが当番制で水やりをしてくれたお陰で、元気に育っているらしかった。
私は驚きと嬉しさのあまり言葉を失い、隣でぼんやりしている息子の方を向いた。若い先生のくったくのない笑顔を見ながら、私のようなおばさんが涙ぐんではバツが悪いので、とっさに顔を背けてしまったのだった。促されるままに校庭に出ると、息子のかすれた名入りのひまわりが、たくさんのひまわりの中で咲いていた。
その後も、息子は毎年夏になると、この学校に通った。子供たちは、最後の日が来ると、「来年もゼッタイ帰って来てね」と言って寂しそうに笑ってくれた。六年生の夏、息子はクラスメートお手製の立派な卒業証書を持ち帰り、それを見た私はしばし呆然とした。
二〇二一年、コロナ禍で、私たち親子は夫をニューヨークに残して帰国した。息子は公立中学校へ転入後、高校受験を経て、現在は主要科目を英語で受けられる高校に通っている。日本語は問題なく使うことができるが、英語力が圧倒的に優り、お小遣いの大半を洋書専門店と名画座で使ってくる。海外の大学で文学を学ぶことを希望しており、センター試験を受ける気も、その実力もないようだ。
……はて。なぜ私はセンター試験にこだわったんだっけ。私だって受けたことがないのに。私の本当の夢は、彼が習得した日本語を使い、日本の素晴らしさを知ることだったはずだ。
振り返れば、息子は幾度となく言っていた。
「日本はすごい!」

随筆春秋事務局
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