木馬が別れを告げるとき2
ちいさな町にあったおはなしです。
その夜は、星があんまりいっぱい出ていましたので、町は、ふかいみずうみのそこへ、しずんだようでした。
これは、「木馬がのった白い船」の冒頭部分です。ファンタジーは読者を空想の世界に誘いますので、書き出しが重要になります。
つぎの部分は
みちも、なみ木も、ずっとたかいところにたっているヒライしん(落雷を防ぐための金属棒)も、星からおちてくる、あおいしずくをあびて、うっとりとねむっていました。
この描写も深く内密な時間が支配していて読者の心の染みいります。そんな夜だからこそ不思議な出来事も受け入れられるのです。木馬が手紙をくわえて郵便局へやってきたことも違和感がありません。
局長さんが、夢ではないかと疑いながらも木馬に親しみを感じたのは、かつて子どもの頃にその木馬にのっていたからでした。
手紙を受け取った山口さんも、木馬にのって足をバタバタさせて、おなかをけっていたことに心を痛めるのです。
私はディズニー映画「ピーターパン」を思い出しました。ピーターパンを息子たちの作り話と思い込んでいた父親ジョージが、ラストで雲を見上げ、それが帆船に見えたとき、
「あの船なら、わしも見たことがあったよ、遠いむかし、まだ子どもだった頃にな」という台詞で子どもたちとの境界線がなくなったのです。立原先生が映画に誘発されたかは知る由もありませんが「ピーター」(1953年)も「木馬」(1960年)も大人こそ童心に返る時間が大切だとなげかけているといっていいでしょう。しかしながら、童心に返れない大人がいることも現実です。ジロのお母さんもミサオのお父さんもそうでした。
新聞社には抗議の電話がかかってきました。こどもニュース係は笑いながら「あれは、でたらめでも、ばかげてもいません。木馬は本当にごあいさつをしたかったのです」と答えたのです。
真夜中の12時には、金にぬられた木馬の首には、花輪が飾ってあります。木馬が塔にのぼっていくと、待っていたのは、小さな帆のついた白い船でした。木馬がのった白い船は、皆に見送られながら、星と星のあいだに消えていきました。木馬はどこへ去っていったのか? それは、おのれの夢想する心へと帰ったのでしょう。それが確認できるように、ラストはこう結ばれています。
——みんなの耳に、空のどこかから、へんな、ふるぼけた声が、いっているのがきこえたのです。「ぼくたち、きっとまた、あいましょうね。あおうとおもえば、いつでもあえるのですよ。あなたの、ゆめのなかのこうえんで——」
(木馬がのった白い船、角川文庫より)
浜尾

制作|事務局 正倉 一文

