第1編 子どものころの泡沫話
――高齢になって思い浮かぶ子どものころの話を成長順に拾ってみました――
目次
01. セピア色の姫だるま
「はい、あんたのお宝」と義姉から渡された。
それは高さ15センチほどの、全体がセピア色に褪せてしまった「姫だるま」である。赤と黄の絹糸で顔以外を縦縞模様にして幾重にも丹念に巻かれている。糸のほつれもなく、かすかにかつての気品の名残を留めている。
92歳の義姉は、札幌市内の小規模有料老人ホームに入居中である。玄関での面会が15分だけ許されると聞き、妻と2人で会いに行った。入居間もない時に一度会って以来、新型コロナ禍で2年が経っていた。義姉は元気ではっきりした口調で受け答えをした。姫だるまを入れた小さな紙袋を私に手渡し、ほほ笑んだ。
義姉は、21歳で嫁いできて70年、田舎の農家の実家を守り暮らし続けてきた。90歳を迎え、1人暮らしも限界だと悟り、ほとんどすべての物を置いたまま札幌に移り住んだのであった。家から持ち出してきたわずかな物の中に、気に留めて私に持ってきてくれた唯一の物が、そのだるまだった。
父や兄が農閑期に山から切り出して集めた材料で建築したわが家には、8畳間の奥座敷があった。そこに、ささやかな床の間と違い棚が付いていた。だるまは、その棚の上にずっと飾られていた。私の幼児期から始まり、大勢いる甥や姪も、私の2人の娘も1人の孫も、実家を訪れたときは、転ばせても投げても必ず起き上がるので、面白がって何度も遊んだ。抱いて記念写真も撮っていた。
いつの間にか「末のおじちゃんのだるま」と名付けられ、私の分身のように扱われていた。その命名の由来となった、写した時期と理由が不明な写真がある。10人きょうだい全員がそろって真顔で整然と3列に並び、質素ながらよそ行きを着ている。その前列中央で、末っ子の私はだるまを抱いて立っている。
子沢山の最後に生まれた私が、アルバイトをしながら大学を卒業した。そんなことで、実現可能な身近な目標にされ、甥や姪は、親の実家に行った際、だるまで遊んだ後で、いつも「おじちゃんを見習い、後に続きなさい」と、親にハッパをかけられていたらしい。
義姉からだるまを受け取った後、古い写真の謎解きに挑戦してみた。不思議なことに、両親も、すでに生まれていた甥2人も一緒に写っていない。他に写っているのは「姫だるま」だけ。背景の壁面も無地のモノクロだが、出来栄えからみて明らかにプロが撮ったものである。実家を離れて暮らしていた兄や姉が呼び集められた状況を考慮し、推理をしてみた。すると、有力な可能性は戦争に関連し、年代も昭和15、6年ごろに絞られた。
昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まった。前年の5月、国は優良多子家庭表彰を決め、子ども10人以上を戦死や天災以外の原因で1人も死なせないで育てた家庭を「優良多子家庭」として表彰することを始めていた。
わがきょうだいがこの表彰の候補になり、その勢揃い写真だとすれば得心がいく。ただ、実際に表彰されていれば、証拠となる賞状等が残っているだろうし、名誉な話題としても伝わっているはずである。だが、それがない。
保存の戸籍謄本を見て合点した。実は11人きょうだいで、長男だったはずの兄は生後すぐ病死し、次に生まれた兄が長男として記されている。村が候補に仕立て、家を出ていた姉や兄を呼び寄せて写真撮影までしたが、戸籍確認でご破算となった。そんな経緯だったに違いない。語り言のない写真でも、きょうだい全員がそろって写ったのはこれ1枚だけである。極めて貴重な宝物として後に複製され、皆に手渡されていた。
だるまが家にあったことについては、母のきょうだいが四国の愛媛県から北海道へ移住してきていて、戦時色が強まる気配に憂慮し、そろって古里を訪れたとの話が伝わっている。伝統工芸品の同じ造りの「糸かけ姫だるま」が、昔、愛媛県松山市道後温泉の土産品だったことを、ネットで改めて確認した。
その時の話も残っている。参加を諦めていた母は、母の姉や弟に説得され、旅費等に加えて、頭の先から足の先まで着る物一切を整えてもらった。照れながら、10歳まで暮らした西条町(当時)への旅に参加した。それは正に「着せ替え人間」だったという。
夜遅く旅から戻った母は、私を早く喜ばせようと、寝ている私を起こして土産の饅頭を食べさせた。翌日、皆が食べるのを見て、「起きていない。何も食べていない」 と、私は泣いて言い張ったそうだ。
何度もだるまを転がし、「なぜだ」とつぶやく幼少の私に、いつも母は「七転び八起き」の話をまじえて、「転んで痛くても自分で起きるんだよ」と言い聞かせていたという。そんな話を、95歳まで生きた14歳上の姉が晩年、懐かしげに語ってくれた。
80年以上も、わが一族の喜びも悲しみも共にしてきた「姫だるま」である。お宝として今後の保存を託された。「姫」とはいえ、すでに超ご高齢の神功皇后様である。もう転ばせるのは忍びない。私は、久々の出会いにそっと少しだけ傾けて、若いままのお顔をじっと見詰めた。
(2022年10月28日発行文芸誌『さっぽろ市民文芸』第39号掲載。随筆部門「優秀賞」受賞、一部加筆)
02. トッちゃんだけの蜂蜜飴
79歳の私は、ケアハウスに入居中の93歳の姉を月2回の割合で訪問している。もうすぐ12年目に入る。1時間程度、あれこれとりとめもない話をする。お互いに以前に何を話したかをすぐ忘れるので、何度も同じ話をしては、新鮮な話として「ホー」とか「エー」とかを繰り返す。歳が14離れているので、同じ話題なのに、一時代違うせいか少しずれる。そこがおかしく、大笑いして次の話題に移る。
しばしば話題に上るのは、近隣村に住んでいた、母の弟にあたる叔父の家のこと。その思い出によく出てくるのは、数多いいとこの中でも最年少で、特別扱いされていた幼児期の話。私が5、6歳前後と思われるが、「蜂蜜飴」のこと。篤農家で多才な叔父は、農業のかたわらいろいろと挑戦していて養蜂もやっていた。
私の記憶にはそれしか出てこないのだが、母や父に連れられて行くと、
「トッちゃんか。よう来た、よう来た。すぐ作るから、ちょっと待っててな」
と叔母はすぐに取りかかる。
蜂蜜をたっぷり鍋に入れてしばらく煮詰める。そして、粘り気が強くなると2本の割り箸にぐるぐる絡めて水飴のようにして、
「さあ、お食べ。混じり物なし。トッちゃんだけ!にだよ」
子どものこぶしの2倍をはるかに超える大きさ。ペロペロなめて、伸びた所はかぶりつく。うまいのなんの。叔父の家に行くとなると、そのことしか考えられなかった。今でも唾を飲み込む。
朝食のパンに蜂蜜をたっぷりぬるのはもう何十年も続く私の習慣だが、もしかすると、高齢出産で母乳不足だったそうだから、既に赤ん坊の時に蜂蜜の「刻印づけ」があったかもしれない。
「ぜいたくは敵だ!」の時代に「ぜいたくはすてきだ!」を体験させてもらったのである。最近、養蜂家にこの話をしたところ、
「今でも考えられない。もんすごくぜいたくな歓待を受けたんですね」
と感心された。
姉のほうの話はさらに数年さかのぼる。「10歳代の娘にだよ」と強調しながら、身振り手振りで大変さを物語る。山野に設置の巣箱に行って、面布をかぶって採蜜作業の手伝いをさせられた。蜂に攻撃されて、しばしばさされた恐怖の記憶が鮮明で、よい思い出にはなっていないようだ。
それでも、作業時の手に付いた蜜をなめる役得が頻繁にあり、濃厚な独特のうまさはやはり忘れていなかった。
(2017年2月10日、ウエブ掲載欄『蜂蜜エッセイ』第1回募集掲載。一部加筆)
03. 蜜蜂追いの思い出
「蜂追いのころ」というエッセイを読んだ。子どものころ、お父さんのお手伝いで、蜂に付けた目印の白い紙切れを追って、野山を駆け巡ったという思い出。蜂の巣を捜し当て、巣穴の蜂の子を採るためだった。お父さんにほめられるのがうれしかったという。
私の生まれ育った北海道の故郷では、蜂の子を食べる風習がなかったので、そんな楽しみに満ちた思い出はない。
これを読んで、ふと思い出したのは、赤クローバーの花蜜と蜜蜂のことである。
幼い時代は太平洋戦争の末期、約80年前の話。農村の子どもは、おやつ代わりに牧草の花を吸ったり葉をかんだりして、その汁を味わうのも一つの知恵だった。
野原には赤クローバー(ムラサキツメクサ、和名はアカツメクサともいう)が咲き誇り、味は濃くはなかったが、花汁は確かに甘かった。子どもたちは根気よく赤紫の部分を摘んで、その微量の汁を吸っていた。
蜜蜂も飛んできて、しきりに花蜜を吸っていた。その花蜜を溜めたのが、そく蜂蜜だと思っていた。
子どもの浅知恵だが、仲間で話し合っているうちに、花蜜を集めている蜜蜂を捕まえて蜂の胃をなめれば、少しはまとまった蜂蜜が食べられるのではないかと思い付いた。
誰かが聞いてきた。
「蜜蜂は胃に花蜜を溜めて巣に持ち帰る。訪れた花にストロー状の口を差し入れ、花蜜を吸い上げ、専用の胃に溜める。これは非常に伸縮性のある透明なタンク。花蜜が溜まると、風船のようにふくらみ、腹部も伸びて大きくなり、体重の半分に相当する量にもなるので、見ればすぐにわかる」
早速実行に移した。腹部が大きくふくらんだ蜜蜂を見つけて追い回し、帽子をかぶせて捕らえ、蜜の入った胃を抜き出して食べてみた。
ところが、いざなめてみると、予想したほど美味しくなく、期待外れだった。大変な努力の結果がこうだ。
また、悪童仲間は濃く色鮮やかなクローバーを探して、1本1本抜き取って吸う姿に戻った。みんなは勤勉な蜜蜂と競い合うようにして吸った。
(2019年9月19日、ウエブ掲載欄『蜂蜜エッセイ』第4回募集掲載。一部加筆)
04. 右手で箸練習「ほめまくり」

イラストは、飯名碧水 提供
成人後、酒のさかなで兄から聞かされた話。
小学校入学の1年ほど前、母は私に言った。
「お前は今、左手で箸を使い、絵を描く。右手でできなければ、学校に入れてもらえない。必ずできるようになるから、右手で練習するように伝えなさいと、夢の中で神様から言われた」
「お前は神様を信じるか」
と問われ、私は真剣にうなずいたそうだ。
そこで、同居の5人のきょうだいは「ほめ言葉作戦」を練り、末っ子の私の一挙手をほめまくった。右手に箸を持っただけでも、誰かが称賛し、拍手をした。私は得意げに「これ見て」と、進歩振りを見るよう催促し、誇示していたそうだ。
おかげで、不快経験も後遺症もない。そして、両手利きになった。
しかし、思い出を覚えているのは私の右手である。実は、矯正されたときの左右混乱の特異体験を今も時折引きずっている。即座に左右の判断ができないのである。
「箸を持つ方が右手。そうでない方が左手」と、その都度いったん確認する。慎重な振る舞いは続く。気が付けば、精密仕事、力仕事は、いつの間にか左手に替わっている。
(2019年5月27日、日刊紙『大分合同新聞』「子どものころの思い出」欄投稿掲載。一部加筆)
05. レール音の残響
深夜の日替わり時刻に近づくと、「ゴーッ」とごく低い地鳴りのような音が聞こえ、数秒続く。やおら壁掛け時計を見上げ、パソコンを終了し、眠りの準備を始める。このところ、こんな生活が常となってしまった。
突然の音に、初めは歳で耳鳴りが始まったかと気にし出したのだが、すぐに正体がわかった。多数連結貨物列車の通過音だった。
JR新札幌駅から直線距離で100mほどの所に居住する。頻繁に列車が往来する昼間は聞こえない。深夜の静けさは、レール音をそのままに難聴の私にも届けてくれる。
戦後復旧の札沼線、新十津川駅以南の路線も令和2年5月7日に廃止。この決定以来、しばし通過音に聞き入り、故郷での幼少時の体験に想いを重ねるようになった。想像を巡らせた幻の音が記憶の彼方からよみがえってくる。
明治時代から、私の生家は農業を営んでいた。昭和に入って、わが家の農地を2分割する形で南北に走る鉄道が敷かれることになった。しかも、駅舎と関連施設の建設も、わが家と目と鼻の先の位置に置かれた。
そこに設置の「碧水駅」を含む札沼北線が昭和6年10月に誕生。そして、同10年10月3日、全長111km強、全23駅を4時間余で結ぶ「札沼線」がついに開通した。単線路で、運行は上下線合わせて10本程度。
全面開通の2年後、駅から東側に50mほどの所に建つ母家で、私は生まれた。出生時から駅に最接近の家で、列車の行き来や人々の乗り降りを見て、愉しみ育った。
言わば、駅周辺は格好の遊び場だった。中でも線路に好奇心が向いた。大人と顔を合わせると、決まって注意の言葉をかけられた。注意されるから好奇心が駆り立てられた、と言った方が当を得ていたかもしれない。
土手で列車に手を振ったのはごく幼い時。
鉄路への立ち入りは至る所で自由同然だった。小さな市街地の端に位置した駅から北側100mほどの所には、東西に交差する道路もあった。遮断機も信号機もない状態だったので、子どもたちは、目立たないように何気ない素振りで、禁止の線路遊びを試みた。
1つは、レールの上に小石や釘などを置いて、それを機関車に轢かせるもの。石は砕けて飛び跳ね、釘はつぶれて平べったくなる。結構、面白がってやった。
2つ目は、レールを平均台に見立てて、両手を広げて、いかに速く遠くまで早歩きするか、運動神経の機敏さを競って楽しんだ。
3つ目は、レールに耳を当て、地鳴りのような音を聴き、列車の行方を想像するもの。幼児の試し心を誘う格好の遊びであった。
脳に深く刻み込まれたというか、82歳になっても記憶の奥に残っていたのは、幼少時に聴いたレール音の残響である。
これには、SLが近づいてくる音を聞く場合と、遠ざかる音を聞く場合とがある。恐怖のスリルを味わえるのは、もちろん前者。できるだけ列車が身近に来るまでレールから耳を離さない(逃げ出さない)肝試し。
ただ、駅の近くで行うのは、年長児もとても無理。列車は速度を緩めているとはいえ、ホームで見守る駅員、前方注意中の機関士、双方の眼が光っている。大目玉を食らう。
大目に見て黙認されたのは、石狩沼田駅へ向かう下り線、去り行く列車の場合だけ。安全・安心の下で、遠ざかる列車の姿を追い、次第に薄れる響き音の余韻を楽しんだ。
隣の北竜駅との間は3km強の距離だったが、走りの遅いSLは5、6分を要した。
年長仲間はすぐに飽きてやめるが、私はこの「耳当て」が大変気に入っていた。
かすかに「ポーッ、ポー」と汽笛が聞こえて、「ゴー、ゴーッ」のレール音が途絶える北竜駅停車まで心を耳に集中させた。遠い未知の地に想いを馳せるひとときだった。
これも、家事の手伝いなどがあり、鉄製のレールは、夏は熱く、冬は冷たかったので、思うほど頻繁には体験できなかった。
そして、片田舎にも太平洋戦争末期の苦戦が波及し、人々に悲壮感がみなぎった。
札沼線は不要不急の路線に指定された。国民学校に入学した直後、6歳の春だった。
「線路は続くよ、いつまでも…」のはずが、すぐにも全て持ち去られると聞かされた。私は、汽車の気配を感じると、畦道を大急ぎで走って、レールに耳を押し当て、遠ざかるSLの響き音を名残惜しむように聞いた。
昭和19年7月下旬、いよいよその運転最後の日がやってきた。お別れ列車には住民あげての見送り。日の丸の旗を振り、出征兵士を送る歌で南樺太に行くSLを励ました。
勇ましく蒸気を噴き上げながら走る、黒光りの雄姿がカーブで曲がって視界から消えても、皆は大きく旗と手を振り続けた。
私は、急いで皆の足元で、レールに耳を押し当てた。心なしか、車輪の轟音は大きく聞こえ、北竜駅手前の汽笛も長く尾を引いた。
(2020年10月31日発行文芸誌『さっぽろ市民文芸』第37号掲載。随筆部門「奨励賞〈準大賞〉」受賞)
06.負傷者役で「迫真の演技」
小学1、2年のころ、第2次世界大戦も末期になっていた。北海道の山深い村落にも探索の米軍機が飛んできた。
ある日、空爆の避難訓練をすることになって、負傷者として担架に乗せられる役に私が選ばれた。上級生4人で運ぶのだが、真剣にやるようにとの先生の指導があったので、私は担架の上で「痛い、痛い」と暴れてみた。
終わってから、上級生からは「運ぶのが大変だったぞ」と怒られるやら、同級生からは「次はオレにやらせてくれ」と頼まれるやらで、大変だった。
上級生は小柄で軽い私を選んだはずだった。同級生は怖くて避けたはずだった。当てが外れたらしいのが愉快だった。
実につまらないことを覚えているものである。75年経っても愉快さだけが残っていた。
(2020年3月9日、日刊紙『大分合同新聞』「子どものころの思い出」欄投稿掲載。一部加筆)
飯名碧水 提供
07.老いて孫に教えられ
私は長い間、トラウマ症状に悩まされてきた。自分で勝手に、そう思い込んで深刻がってきたのかもしれないが……。
犬に出合うと、心臓の鼓動が激しくなって、警戒心が異常に高まるのである。大型犬であろうが、小型犬であろうが、恐ろしくて逃げようとする気持ちは、今も変わらない。
この年で、いまさらと思おうと努めても、一向に変わらないのだから情けない。他人に理解してもらおうと、真剣に話すのだが、たいていは一笑に付され、取り合ってもらえないので、悔しい思いをする。
ことの始まりも、やはり忘れられない。70数年も前、太平洋戦争の終戦後間もない小学4年時、北海道の田舎での話である。
農家のわが家は、自宅周辺の稲作を主にしていたが、3キロほど離れた山裾に畑作地もあって、時折、急ぎの連絡の用を言いつけられることがあり、自転車を使用していた。山村だったこともあり、どこの家も1、2台しか自転車がなく、それも26インチの男用で、女用も子ども用もまだ普及していなかった。
小柄な子どもは、普通に乗るとペダルに足が届かないので、三角乗りをしていた。この曲芸的乗り方は、子どものころの一時期だけの乗り方で、子ども用自転車が普及した今では、お目にかかることはなくなった。
左手でハンドルを持ち、右足を三角空間に通して右側のペダルへ乗せ、自転車を右に傾けながら左足で蹴って進み、少しスピードが出たら左ペダルへ乗る。そして、傾け過ぎた車体を少し左へ戻して漕ぐ乗り方である。
隣の市街地に向かう幹線道路を1キロほど進んだ所に、山方面に向かう枝道があり、山裾まで2キロほど延びていた。どの道も粘土の上に砂利を盛ったお粗末な道であった。
枝道はほんの少しずつ勾配が増し、最後の50メートルほどは急勾配になり、その高台の奥にわが家の畑が山裾に広がっていた。
馬車がやっと擦れ違える幅のこの道は、自転車で行くと、行きは辛いが、帰りは楽だった。下りの帰りは漕ぐ必要がなく、どんどんスピードが加速して、恐ろしくなってブレーキを何度もかけるほどだった。
枝道の両側に点々と稲作農家が居住し、どの家も、道路から50メートルほど離れた所で防風樹を周囲に植え、住居を構えていた。玄関脇には、つなぎ飼いの番犬がいた。
ある日、用事を終えての帰り途、最も山側にある家の近くに差しかかった時であった。つなぎ綱を引きずる犬が吠えながら走ってきた。スピードを出しながらヘッピリ腰で自転車に乗る怪しい人物を見たからであろう。
ビックリ仰天した私は、ブレーキの制御を忘れ、必死で車体を操った。ガタガタ道で自転車は弾んだ。幸い前方には通行人も馬車もなかったが、けたたましい吠え声が瞬く間に低い姿勢の背後に迫ってきた。各家の番犬も遠くで盛んに吠え立てた。
アッと言う間に操作不能に。サドルにしがみついたまま、側溝の水路に飛び込んだ。犬も勢い余って、私を飛び越えてザブン。
水田で草取り中の人が飛んできて、私は助かったのだが、これを境に犬好きなのに、犬恐怖症状に悩まされるようになった。
その影響例を1つ。時はグッと下がって、第2の人生の初日、68歳の時のことである。退職後の生活計画の1つは、1日1時間のウォーキング。事前に探して、住宅密集地の中に格好の散歩道を見つけていた。
家から歩いて10分ほどの所が発着点。名のある川だが、今は中心に小川が残るだけ。約100メートル幅の河川敷の小高い両側は、3メートル幅ほどの堤防兼遊歩道になっている。車はもちろん、自転車も原則禁止である。
途中の橋を渡って、ぐるりと回れば約3キロの距離となる。40分ほどで、また出発点に戻る。利用者が少ないのも気に入っていた。自由気ままに歩けるのがよかった。
ところが、いざ始めてみると、犬連れの散歩者が意外と多いことに気づいた。いや、実際にはそれほど多くはなかったのだが、犬が気になる私にはそう思えたのだった。
見ていると、気ままに走り回るのは犬のほうで、引きずられて右往左往するのは飼い主だから、犬の散歩というのが当を得ている。
引き綱を緩めて、好き放題にさせるから、草地に入っては用を足す。立ち木を見つければ、匂いを嗅いで必ずマーキング。
神経を尖らせながらしばらく歩いた。と、前方に大型犬が派手に飛び跳ねて、飼い主とじゃれ合いながら近づいてくるではないか。
「引き綱が!………」と思った途端、恐怖に胸が高鳴り、体がすくんだ。即座に草地に入って、後ろ向きになり屈み込んだ。我に返って、ちらっと犬の行方を確認すると、だいぶ離れていたのだが、飼い主に強く首輪をつかまれながら、犬も振り返った。
第1日目にしてこの有様だから、残念ながら遊歩道でのウォーキングは諦めた。
寅年の正月、長女一家が福岡から来た時、この『トラウマ』のことを話題にした。午年の妻は、戌に丑年の私がおびえるのだから『イヌウシ』だと、ギャグを言った。そして、十二支の組み合わせで、ああだこうだと盛り上がり、どんどん話は発展していった。
突然、提案型の小学5年生の孫娘が、
「それって『犬が苦手』ってことやない?」と一言。孫の使う福岡弁を真似て、私が、
「そうやね」
と答えると、みんながどっと笑った。
しばらくして孫は、面と向かい恥ずかしげに私の顔を見ながらささやき声で言った。
「おじじさぁ、犬は、犬好きのおじじと一緒に遊びたいと思ったんやない?」
思ってもみなかった指摘に面食らった私は、息を吞み込んで、
「そうかもね。そうだねー」
と、自分に言い聞かすようにうなずいた。
(2022年3月31日発行文芸誌『随筆春秋』第57号掲載)
08. 後悔の念は後押しもする
70年も前、小学校4年の時、授業開始のあいさつをした直後、先生から「白佐、礼をやり直せ」と怒声が飛んだ。一瞬、教室が静まり返った。
私が立とうとすると、A君が「先生、白佐君の足はまだ治っとらんです」と、上ずった声で言った。確かに私は足を骨折していたが、実はほとんど治っていた。
先生は気まずそうに「それは分かっとる」と言い、矛を収めた。
誰も何も言い出さず、何事もなかったように過ぎた。気恥ずかしくて私は、先生におわびを、A君に感謝を伝える時機を逸した。
その思いは後悔として残った。
その後、人生のさまざまな場面で、あの時のことが教訓となってよみがえる。気づくと、復習をするように現れ、決心の後押しをしてくれていた。
(2019年1月21日、日刊紙『大分合同新聞』「子どものころの思い出」欄投稿掲載)
09. 靴下の穴の思い出 (編集中)
(文芸誌『随筆春秋』第59号掲載予定、2023年3月発行予定)
10.母の面輪
退職後、私は近くに住む1人暮らしの姉の安否が気になって時々訪問していた。72歳を迎えて間もない時のことだった。80代半ばの姉は、ケアハウスに入居することが決まり、持ち物の整理や処分を始めていた。
訪ねたある日、姉から「母の写真を持っているかい」と聞かれた。昭和の戦争時代、子沢山の末っ子として生まれ育った弟だから、母親の写真を持っていないかもしれないと思ったらしい。私は「1枚持っているよ。葬式用写真を複製したものだけど」と答えた。
「これなのだけど……」と見せられたのは、在りし日の母のスナップ写真だった。もんぺ姿の素顔の写真を見たのは初めてだった。早速、写真を借りて家に帰り、プリンターを使いパソコンに取り込んだ。
パソコンで画面一杯に写真を拡大して、笑顔の母をじっと眺め続けた。
写真の面輪の笑みが一層増したような気がした瞬間、私の心に変化が起こった。記憶の走馬灯が回り始めた。長い間失われていた子ども時代の記憶が少しずつよみがえってきた。そして、巡り巡ってたどり着いた記憶は、60年以上も前にさかのぼっていた。
終戦後間もない昭和22年の晩秋から胃腸の異変に悩まされていた母は、札幌の病院に入院していた。翌年の1月下旬、手術直前になって、末っ子の私と父が面会に行くことになった。陸の孤島の辺地から札幌へ行った。途中から義兄が、カゼでダウンした父と急きょ交代した。
そう言えば、これが最後の別れになるとでも思ったのか、着いた夜、母が一緒にベッドで寝ようと言い出したことや、帰り際、母が私の頭や顔を何度もなでたことも思い出した。時に、私は小学校4年、10歳だった。
核心の部分がよみがえってきた。あの後、カゼをこじらせた父は、急性肺炎で2月にあっという間に死んだ。そして、胃がんだった母も命尽きて7月に逝った。
我に返って気づかされた。写真が、つまり「写真の母の面輪」が、凍結されていた私の記憶を呼び起こしてくれたのだ。遠い昔の、ある一瞬を切り取った写真にすぎないのに。
なおも母の写真を眺め続けていると、漫画の本のことが思い浮かんだ。見舞いの帰りに札幌駅の売店で、私が選んで買ってもらった。義兄は母から「土産に本を買ってやって」と託されていた。
写真を眺め続けた次の日の朝だった。「そうだ、『ほがらかけんちゃん』だ!」と叫んだところで目が覚めた。どうやら夢の中で漫画の題名を思い出そうとしていたらしい。せかされる思いでパソコンに向かい、確認の検索を始めた。
無意識のうちに「ほがらか健ちゃん」と打っていた。ヒットして現れたホームページには、書名もピッタリの漫画が現れた。
田中正雄作で、昭和27年6月~29年9月に、光文社発行の月刊漫画雑誌『少年』に連載とあった。だが、見本絵の写真は見覚えがない。それに、連載年は中学~高校時代に相当し、雑誌であることにも違和感がある。私は大きく首を振った。
念のため、検索の文字を変えて「朗らか健ちゃん」と打ってみた。ヒットした。書名もピッタリ。単行本の漫画『朗らか健ちゃん』で小野寺秋風作、文園社、昭和22年10月発行。定価20円。表紙の写真は懐かしい。
瞬間、私は「絶対にこれだ!」との確信で手を打ち、強く握り締めた。
漫画との再会は実に62年ぶりだと思うと、無性にもう一度実物の本を手にしてみたい、読み返してみたいとの思いが強まった。
母に会えるような興奮で、わくわくしながら行動を開始した。子ども向けの図書館に照会すればすぐに見つかると思った。
そうはいかなかった。地域図書館の蔵書検索から始めて、いろいろと検索を進めると、やっと国立国会図書館サーチでヒットした。だがよく見ると、原資料の所蔵機関はアメリカのメリーランド大学で、国立国会図書館(国際子ども図書館)にはその複写のマイクロフィルムによるものしかなく、それも館内限定閲覧だという。
「ワラにもすがる」思いで、広域図書館の支援サービスにメールを送り、専門家の再検索と知恵をお願いしてみた。しかし、裏技を駆使しての調査も結論は同じだった。
頼みの、ホームページの情報に併記されていた所蔵先の「ゴードン・W・プランゲ文庫」でも、劣化のため閲覧不可。「歳月人を待たず」だった。
そして、数年が経過。平成30年11月22日、突然ひらめいた。入浴中だった。
「奇跡は人を待つ。古本オークションだ!」。
風呂場を飛び出し、パソコンのスイッチを入れた。あった。予感は見事に的中した。
情報記載の欄には、「英語の勉強漫画、小野寺秋風『朗らか健ちゃん』個数1、現在の価格5,000円、残り時間1日」などとあった。
私は即座に「入札する」をクリックした。
(2020年3月10日発行公募ガイド小説作品集『傑』収載、一部改稿:他作品と重複する部分短縮)
11. 線路の記憶
平成30年1月中旬、テレビを見ていた時、「山陽新幹線、岡山駅で線路内に小学生が立ち入り、運行ストップ」と字幕が流れた。その瞬間、遠い昔の記憶がよみがえった。
当時の名称で国営鉄道留萠本線の石狩沼田駅でのこと。70年前の昭和23年、戦後間もない欠乏時代、小学校5年の春、私は日曜日ごとに深川町の病院で胃がんの術後を過ごす母の許へ野菜などを届けていた。札沼線の北部はまだ復旧しておらず、バスに乗り、鉄道に乗り換えて行く途中だった。
改札を通り渡線橋を渡り、待機中の深川行列車へ急いだ。空席を見つけ、背負っていたリュックを棚に上げ、一息ついた。その時、子どもの泣き叫ぶ声が外でした。すぐに発車する気配はない。様子が気になり、ホームに降りた。
3、4歳の女の子が大泣きしていた。赤ん坊を背負う若い母親は、背中と目前で泣く2人をなだめながら下を向いていた。困り果てているようだった。そばで駅員が「ダメ、ダメ、拾えん!」と諦めて乗るよう促した。女の子はさらに声高に泣いた。
どうやらホームから客車のステップへ移ろうとしたとき、女の子は持っていた人形を落としたらしい。蒸気機関車の時代、ホームと客車の乗り口との間は大きく離れていて、乗り降りの際、大人でも注意を要した。
ホームからかがみ込んで、連結部分の奥をのぞいてみると、客車下の線路上に人形らしいものが見えた。「なんだ、そこにあるじゃないか」と、ためらいもなくピョンと線路に飛び降りて、車両の下へはって潜った。素早く人形を拾って戻り、「あったよ、ほら」と縁石に乗せた。
すっ飛んできた女の子が拾い上げた。後ろ向きだった駅員が振り向き、血相を変えて駆け寄ってきたのも、同時だった。
急いでホームへはい上がろうと飛び跳ねたが、1人では無理だった。「バカな、ひかれて死ぬぞ」と怒声を浴びせながら、駅員は肩をつかんで強く引っ張り上げてくれた。
驚き顔の母親は、もう泣き声を弱めた女の子の頭を抱きかかえながら、「すいませんでした」と深々と頭を下げた。
既に発車時刻が過ぎていたらしく、走ってきた駅長の大声や車掌の甲高い笛に催促されて野次馬たちは急いで車内に戻った。大急ぎで飛び乗った。
列車は汽笛を鳴らして動き出した。客車の中はざわついて、乗客の視線が私に向いた。「危ないべや」とか、「小さいのに、勇気あったな」など、あれこれと声をかけられた。恥ずかしくなって、人々の目から逃れるように、急いで最後部の車両に移って座った。
「代わりに潜って拾ってやったのに、怒るなんて」と、悔しさがこみ上げてきた。
うつろな目で外の景色を見ていたところ、巡回し始めた車掌に見つかった。発車前の一部始終を最後部の車掌室から見ていたのだ。前に座り込んだ途端、早口の説教が始まった。乗客は耳をそばだてた。
「勝手に余計なことしやがって」「ひかれる寸前だった」などと、まくし立てられた。「ボクは拾ってあげただけです」と言ったが、話はかみ合わなかった。悔しさが募った。さらに「何も悪いことなんか……」と抵抗したい気持ちにもなったが、車掌の語気に負けて、頭を下げて耐えた。車掌は「絶対に線路に降りたらだめなんだ。絶対にだぞ、わかったな」と念を押して腰を上げた。
悔しさで落ち込むなか、終着・深川駅に着いた。乗客は降りてぞろぞろと出口に向かった。改札手前までくると、先に降りて待っていたらしく、あの母親が女の子の手を引いて走り寄ってきた。
母親は「迷惑かけちゃって、ごめんね」と何度も頭を下げた。「お兄ちゃんにお礼は?」と促され、女の子は、はにかみながらペコンと頭を下げた。そして、母親は女の子の持つ素朴な人形を上げて見せ、「私作ったの」と微笑んだ。「お母さんにとっても大切だったんだ。拾ってあげてよかった」と、ほっとした気持ちになった。
病院まで15分ほど歩く間、落ち着こうと、深呼吸を繰り返し続けた。しかし、病院に着き、療養中の母と付き添いの姉に会っても、いつものように言葉が弾まなかった。すぐに見抜かれ、姉から問いただされた。込み上げるものを我慢しながら、事の次第を打ち明けた。たしなめられると覚悟した。
横になり目をつぶって聞いていた母は、少し間を置いて、「みんな、救われたんだね。貴重な体験じゃない? 将来、活かす時がきっとある」と、勇気づけるように言った。姉もうなずいた。私の目から涙がこぼれた。
母は、「うん、うん」と納得したかのように1人でうなずいていた。それから間もなく、母は自ら退院を早めて、自宅療養に切り替えた。
私の目はテレビの画面を追っていたが、頭の中は線路内に立ち入った小学生の心を推し量ろうと懸命になっていた。そして、無事を祈った。間もなく、テレビ画面に「小学生、無事保護」のテロップが流れた。
(2018年10月31日発行文芸誌『さっぽろ市民文芸』第35号掲載。随筆部門「奨励賞(準大賞)」受賞。一部加筆)
飯名碧水 提供
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12. 消えない記憶 (推敲中)
(文芸誌『随筆春秋』第60号寄稿予定、2023年9月発行予定)
13. 光 明
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
これは、繰り返し唱える「光明真言」というお経である。
仏教の葬儀などで、このお経が唱えられ始めると、私は神妙な顔をして、僧侶の読経に唱和する。口の中でぶつぶつ唱える場合もあれば、つぶやき声で唱和することもある。
私が唱えられる唯一の短いお経だ。僧侶の読経の中に連唱が加わると、この家の宗派は真言宗だとわかる。私の家系は先祖代々が高野山真言宗であるが、宗派がいくつかある真言宗であっても、共通の重要なお経らしく、葬儀や法事の時など、どの派でも必ず唱えるので、接する機会が多くなる。だから、当然のことで、自慢するほどのことではない。
不思議なのは、このお経を子どものころから78歳の今日までずっと忘れずにいることと、無意味綴りとも言える語の発音を(最近になってわかったのだが)極めて正確に覚えていること、の2点である。覚えていなければならないことを覚えられなかったり、肝心なことを忘れてしまい痕跡すら思い出せなかったりして、自分には記憶障害があると、確信すらしている「この私が」である。
この呪文のような言葉の発音だけを機械的に覚えていた訳だが、文字でどう書くのかも、意味は何かなども全く知らなかった。正直に言えば、知ろうともしなかった。この状態は、子どものころからずっと同じだ。
ただし、自分には記憶障害があるのではないか、と意識し出した高校生の時には、既にこのお経を暗記していて、途中のどこからでも続けられる、この記憶の特異性について不思議に思う疑問はあった。いつ、どうして、どのようにしてこのお経だけ覚えて、練習したり復習したりもしないのに、なぜ覚え続けられているのか、謎であった。そして、年月はそのままに流れた。
謎が解き明かされる時がきた。私は42歳になっていた。それは、亡き父と母の33回忌の合同法要の時であった。私が10歳の2月に父が、7月に母が相次いで病死した。
死者が都率浄土に迎えられるという「弔い上げ」の諸事が終わり、親類縁者を前に住職の法話が始まった。最初から、いつもの仏法を賛嘆する話ではなかった。
この場でしか語られないであろう住職の回顧談だった。父母の死の当時にまつわる話と直感した私は膝を乗り出して、耳を凝らした。法話にしては長かったが、聞き入る人たちには感に入るもので、むしろ短く感じる内容であった。
話の大要はこうだ。住職が私の実家に初めて訪れたのは、6月の父の月命日であった。そこには、病院から見放され、自宅で胃がんの末期症状に苦しむ母がいた。そして、母から「安らかに最期を迎える方法を教えて」と懇願されたという。
その時、住職は17歳の少年僧。父親の遺志を継ぐために、戦後1年も経っていない春、義務教育終了後すぐに香川県の寺へ出家得度。丸2年の修行から自宅の寺に帰ったばかり。そして、檀家に出向いた最初の日だった。
少年僧は狼狽した。が、「光明真言」を思い付き、これを一心に繰り返し唱えることを母に進言した。とっさに頭に浮かんだのはこれだけで、まさに光明を得たのは自分だった、と述懐して住職は一息ついた。
光明真言の意味の詮索はあまり重要ではないという。梵字で示され、日本語にも漢文にも訳されていない唯一のこの経は、もともと祈りの言葉であり、意味よりもそれを発音すること自体に意義がある。あらゆる災いを取り除く真言は、その真言そのものに力があるからだという。
もだえ苦しむだけの母には、その短いお経を覚え、唱える力はもう残っていなかった。そこで、代唱・伴唱者として選ばれたのが、暗記の容易な年ごろであった小学校5年生、末っ子の私であった。このあたりの状況も、私は何も覚えていない。それから1か月を少し経た夏の暑い日、母は力尽きて逝った。
私には、光明真言が遺された訳だが、実は、過酷にもそれ以前の記憶との交換だった。幸いにも、周りの人々は、無口になり沈み込む私を励まして、支え続けてくれた。
「光明真言」は四国のお遍路では必ず唱え続けられるお経だという。北海道にも、八十八ヶ所霊場がある。第9番札所「五智山弘徳寺」(わが家の菩提寺)に2016年の今も巡礼者が訪れ、もう80代後半になった住職のもとで、あの真言が一心に唱えられているのであろうか。
(2016年10月28日発行文芸誌『さっぽろ市民文芸』第33号掲載。随筆部門「佳作」入選、一部加筆)
14. 恩師からのメッセージ
若い時から隔年実施している中学校の同期会は、ふるさと応援で、故郷の町にある温泉を会場にしている。80歳を超えた昨年も開催できた。調べ事で、会の出席の前に郷土資料館に立ち寄った。何気なくのぞき歩きをしていて、約20年前に閉校したわが小学校の古い資料を並べた一角を見つけた。
そこで、いま話題の児童文学書『君たちはどう生きるか』の本を見つけ、手に取った。裏表紙にはA先生退職時寄贈と記されていた。先生は私たちの小学5、6年の担任。当時、皆に衝撃を与えた泡氷事故があった。
ふと、その時の勇者B君の顔が浮かんだ。
泡氷事故は、小学校5年生末の2月初旬に起きた。昼休み、校則を守らず、男子仲間が川へ出かけた。校舎のすぐ裏手に、幅20mほどの川があり、極寒の冬は凍った氷の上で遊ぶことができた。水門があり、落差のある滝下の池の一部分は水の流れが強く凍らなかった。水門の下側で遊んでいた数人が、池中央の水と氷との境界目にできた大きな泡氷群に気づいた。危険を忘れて、惹き付けられるように近づいた。
一番前のC君が泡氷に触れた途端、氷が割れ、水中に落ちた。パッと他の者は周囲に散った。とっさに伸ばしたC君の手が水の中から氷の端をつかんだ。氷はバリ、バリと流れに沿って割れた。素早くしがみつき、首を出してもがいた。すぐに引き返したB君が、C君の肩をつかんで一気に引きずり上げた。
2人の重さで氷が大割れしなかったのは、悲劇中の奇跡だった。異常寒波のこの年でなければ、2人が、いや私を含めた数人が、氷の下に消えて当然だった。
この日を境に、A先生の寛容な優しさは、憂いに満ちた神経質な姿に変わった。
6年生の初夏、修学旅行の引率後、担任は転勤してきたD先生に変わり、A先生は体調不良を理由にひっそりと退職した。
同期会の二次会で、B君と2人で話し込んだ。泡氷の一件があった時から70年。しみじみと危機を追憶し合える存命者はもう2人だけになっていた。
資料館で見たA先生の寄贈本のことを話した。本をパラパラとめくり、折り目が強かったページを読んだことを語った。
そこには「人間の悩みと、過ちと、偉大さ」について書かれていた。
私は資料館でのひらめきも話した。教師を辞める心残りで、先生は寄贈本に願いを託したのではなかったか。私たちへの期待は、危機体験から貴重な気づきを得て、それを後の人生に活かしてほしい、と。
B君は残念がった。
「そういうことか。卒業までの期間は残り少なかったけど、A先生の寄贈本に仲間の誰も気づかなかったのはうかつだった」
「そうなんだよ、……」と、私はうなずいた。誰かが気づいて皆に伝え、本を読み、先生の気持ちにまで理解が及んでいたら、あの後、A先生との関係は全く違ったものになっていただろう。
B君はつぶやいた。
「オレたちは幼かった。A先生に、きちんと謝ってもいなかった。とうとう再会ならずだったなぁ」
50歳に近づいたころ、久々にもう一度だけ小学校のクラス会を開こうとなった。隔年実施の中学の同期会は同時に小学の同期会でもあるのだが、小学校のクラス会を切望する人もいたため、十数人で時折開いていた。
小学校は、戦争中の国民学校時代には、複式学級になったほどの小規模校だった。
クラス会には、担任だった先生を招いた。担任は、終戦前後の時期だったため、20歳前後の女性ばかりで、毎年のように替わっていた。クラス会の招きには、何人もが懐かしがって喜んで参加していただいていた。
もう一度だけの要望が出たのは、A先生には一度も参加いただいておらず、忘れがたい泡氷の一件もあり、心残りがあったからだった。A先生囲む会を開催しようとなった。
ところが、幹事役からの電話に、先生は囲む会開催を固辞された。それでも、先生にお会いしたいとの皆の意向を切々と伝えた。
「ごめんなさい、その気になれないの」。一呼吸置いて、先生は受話器を置いた。
先生の気持ちにしこりがまだ残っていると感じた。20歳前の先生が受けた衝撃とその傷心は、私たちの想像を超えるものであったに違いない。この時、後悔の謝罪の話も出た。だが、歳月の経過に皆は時機遅れを悟った。残念な気持ちのままに、最後の小学校のクラス会開催の話は立ち消えになってしまった。
思い出す話は尽きなかった。B君は
「よし、俺も明日、資料館に寄って本に会って帰るよ」
と、感慨深そうにうなずいて腰を上げた。
(2019年10月31日発行文芸誌『さっぽろ市民文芸』第36号掲載。随筆部門「佳作」入選)
15. 先生もひれ伏した「ゆび卵」

イラストは、飯名碧水 提供
小学校6年の遠足のとき、先生から持参してはならない物の注意があり、その中に「ゆで卵」があった。戦後間もない時代。卵は貴重で、ゆで卵を持たせることのできない家庭への配慮だった。
調子者の私は悪ふざけを思い付いた。遠足当日、途中でポケットから白い卵の殻を取り出して、1人にチラッと見せた。ニヤッと笑って、「口にチャック」のサインを送った。案の定、次々と伝わり、先生を除く、みんなに知れ渡った。
弁当のとき、皆が固唾をのむ中、級長の口上で告発は始まった。先生の説教が始まる直前、私は殻の穴に指を入れ、「ゆで卵にあらず、ゆび卵なり」とみんなに見せた。水戸黄門のつもりだった。
一瞬の静まりの後、先生が「ハハー」とひれ伏し、どっと沸いた。笑いすぎて涙が出た。
(2019年10月28日、日刊紙『大分合同新聞』「子どものころの思い出」欄投稿掲載)
16. 無知の後悔が教師人生の教訓に

イラストは、飯名碧水 提供
「単純というか、無知だったなー」と、同職だった友人に酔いを借りて述懐した。傘寿を節目に、これが最後と開いた同期会の時だった。
終戦後の民主教育が叫ばれた時代、中学1年の時のこと。若い女性の先生が1人1人に試験の答案を返しながら、一言ずつ声を掛けていた。私には「職業にキセンはないよね。君ならわかるよね」と言った。「職業に汽船?」とはどういうことかと思いつつ、「あっ、はい」と答えたものの、とんちんかんだった。
辞典を引いて、「貴賤」という言葉を知った。そのころ、父親が火葬場の職員という女の子が同じ組にいて、職業に関連したあだ名が付いていた。私は意味も知らず、みんなの発音をまねて呼んでいた。先生の言葉は、私に悟らせるためのものだったのだ。
無知の後悔は、長い教師人生の教訓として、ずっと心に残った。
後悔の念は67年の歳月を経てもなお脳裏に残っていた。
(2018年6月4日、日刊紙『大分合同新聞』「子どものころの思い出」欄投稿掲載)