純度の高い蜂蜜
純度
日高山脈の支流、アポイ岳の裾野から太陽が出ようとしていた。山の端から一条の光線が放たれたと思うと、それをきっかけに何本もの光の矢が一斉に走り始めた。オレンジ色の放射状の半円形が、アポイ岳の光背のように浮かび上がった。
山の端から一直線に伸びた光が、西側の低い山々を照らす。やがて光は斜面の畑に下り、家々の屋根を照らした。青白い街がまばゆい光に包まれていく。小さな風が巻き起こり、光のかけらがほの白い雪面に宝石のように散乱している。その輝きがみるみる増えて、やがて雪面全体が金色に輝き始めた。
近藤 健の代表作「牛乳瓶の音」(エッセイ)の一節です。
圧巻の描写です。風景が目に映るようです。最近の若者の中には、こういう部分はすべて読み飛ばしてしまう、という人もいます。台詞を追いストーリー展開を楽しむのが、そんな彼らの信条です。
この作品で読者の感情がピークを迎えるのは、浩一の、「今日、母さん、退院するんだ」という台詞です。少なくとも小生の場合は、ここでした。
随筆春秋の童話講師、浜尾まさひろが書いています。三枚とか五枚、長くても十枚の作品を、それこそ二十遍も三十遍も書き直すのだそうです。そのために十年や二十年を費やすことがあったといいます。
こんけんどうもまったく同じことをいいます。そうやって、作品の「純度」を上げるのだ、と。
小説、エッセイ、現代詩、和歌、俳句といくに従って、ひとつの作品の文字数は少なくなります。俳句は、たかだか十七文字ですから、ことによれば瞬時にできてしまうかもしれません。
ですがそれを揉んで何週間も時間をかけることだってあると思います。あるいは塩漬けにして、何年もの時を経て、詠み直すこともあるでしょう。
そういう意味では、小説に比べて俳句は、一文字一文字に関しての労力がとても大きいのが特色です。
小説とエッセイの関係も同じです。こんけんどうはこの辺りのことを「純度」と呼んでいます。別に、小説がいい加減だ、といっているわけではありません。ただ、小説の文章の方が、より汎用性の高い文章である、といえます。
つまり、許された自由度が高いのです。エッセイ、現代詩、和歌、俳句といくに従って、その範囲が狭まっていきます。言葉や言い回しが、ほんの少し路線から外れただけで、その作品は台無しになってしまいます。そういう意味です。
そして、こんけんどうも浜尾講師も、作品の分量として一番最適なのは、四百字詰め原稿用紙換算で五枚といいます。これがエッセイや童話、ショートショートの黄金律です。
いろいろ考えてみたのですが、なぜそうなのか、論理的な裏づけは今のところ、この小生には分かりません。ただ、いろいろな作品を読んでみると、「やっぱり五枚だよな」と思わされることがあります。
実は、「エッセイは、原稿用紙五枚で書く小宇宙」という言葉があるそうです。これは、この道の先輩たちの共通の認識だと漏れ伝わっております。
こんけんどうは、地方紙にもエッセイを掲載していますが、新聞には三枚、という条件があります。そのため、非常に苦労するのだそうです。
一方、エッセイの文学賞では十枚を要求するところも多いようです。その場合、さまざまな伏線を設けたり、別の仕掛けも用意しないと、話が間延びしてしまいます。
これも、こんけんどうの言葉を借りれば、「純度の低い作品」ということになります。小生などは、何度も、このダメ出しをされていますが、残念ながら、いまだにそれをクリアできていません。
いい作品を書く、ということは、つまり、純度の高い作品を書くということなのだ、と小生は考えています。
事務局 正倉一文
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