坂野貞子『晩春』随筆春秋刊、2021.03.09

出版書籍の校閲・あとがき

「あとがき」全文

 私が随筆春秋でエッセイの添削指導に携わるようになったのは、二〇一四年五月からである。データを遡ってみると、坂野さんの作品に初めて接したのは、その年の七月のことであった。それから六年、添削数は二十本にのぼる。今回、過去の添削コメントをザッと眺めてみた。すると、次のような記述があった。

「本作品は、坂野様の人生のほんの一端を綴ったものですが、私としては生い立ちから現在に至るものも、ぜひ読んでみたいという思いに駆られました。こういう五、六枚の完結した作品を思いついたところから書く、そういう積み重ねが坂野様の人生の絵巻につながるのではないでしょうか。丁寧に順序立てて書くのは、あまり好ましいことではありません。構えてしまって、うまく書けないものです。思いついたところから書いてみる。それをあとで並び替え、パッチワークのように繋げていくのです。どうぞ、挑戦してみてください」

 三年前の春、私はこのような提案をしていた。今回、坂野さんはそれにみごとに応えてくれた。私は貞子さん(このように呼ばせていただくご無礼をお許しください)のことを作品を通してしか知らない。今回いただいたプロフィールを眺めていると、貞子さんの輪郭がおもむろに浮かび上がってきた。

 貞子さんは昭和十年(一九三五)三月に長野県下伊那郡平谷村ひらやむらに生まれている。平谷村は信州の南端に位置し、信州と三河を結ぶ三州街道の宿場町として栄えた土地である。標高九〇〇メートルに位置し、人口は四〇〇人ほど。平谷村は、現在、長野県下で最も人口の少ない村だと、村のホームページに記されている。

 中学を卒業した貞子さんは、名古屋にある小さな医院に住み込みで勤め始める。そこで働きながら助産婦学校を出て、助産師の資格を得る。その後、別の病院に勤務しながら夜学の高校を出、さらに短大まで卒業し、中学の教員免許を取得するのだ。貞子さん、二十七歳の春のことである。

「(社寺などの)案内書を読んでいると、もっと知りたいことが数珠つなぎになって出てくる」

 貞子さんの探求心の旺盛さは、作品の随所に顔を見せる。紙数に限りがあるので、ここでご紹介できないのが残念である。また、貞子さんの魅力は、このまじめさの底流に、そこはかとないユーモアがあることだ。

「私は後期高齢者であるが、できたら年を重ねても、小ぎれいにし、かわいいおばあさんになれたらなあと願っている。(略)人は顔形は替えられないが、髪型は変えられる。私は幸い髪の量が多いので、髪をセットしてもらい顔をカバーできないかと考えている」

 大まじめに語れば語るほど、ユーモラスさが行間から溢れてくる。

「ひざを痛めて整形外科へいく。リハビリに通い初めて三ヵ月が経過した。だが、ひざの痛みは一向によくならない。かたわらの女性にどのくらい通っているのかと聞いたら、七年だと返ってきた。週に何度通っているのか尋ねると、毎日だと。話していると、みなさんは『もう死なないと治らない』と明るく笑いながら話してくれる」

 貞子さんにはお目にかかったことはないのだが、そのご様子が目に浮かぶ。

 本書には六十本のエッセイが収録されている。圧倒的な質量をもって迫ってくるのは、二〇一一年八月にご主人が脳溢血で倒れて入院後、老人保健施設に入所されてからの記述である。ご主人の施設での生活がいくつかの作品に垣間見られる。

「暑い寒いといっているうちに、今年一月で一年が過ぎたが、彼は立ち上がることも車イスに乗ることもできなかった。残念だった、悔しいけれど私は諦めてはいない」

「少しでも元の体に戻してやりたい。懸命に働いて家族を守ってくれた夫に、もう一度、歩く喜びを与えてやりたい」

 貞子さんの祈りにも似た思いが伝わってくる。貞子さんはその一念で施設に足を運び、献身的な看病を行う。その姿に、他人ながら熱い思いが込み上げてくる。

 貞子さんはご主人を元に戻すための第三次、十年にわたる独自の計画を立てていた。施設のリハビリの時間が足りないと嘆き、独自のリハビリを施すのだ。肩のマッサージから始め、両手のマヒを防ぐために両手を上下左右に伸ばしたり曲げたり。手と同様に脚も行う。

「最後には夫の両手を引っ張り、車いすの背もたれから離してやるのだ。その際、『お父さん、綱引きやろうネ』と言うと夫はとても喜ぶ」

 その後、ご主人はどうなったのだろうか。貞子さんは何も語ってはいない。そんな疑問に答えてくれたのは、事務局を通して貞子さんとの連絡の取次ぎをしてくれていた長女の節子さんだった。

「父は二〇一一年八月に倒れ、入院を経て施設に入所し、二〇一六年十二月に亡くなりました。五年間、母は毎日のように通って看病していました」

 初めてわかったことである。実は、貞子さん自身も現在、老人保健施設に入所されている。ご主人が亡くなった翌年の夏ごろから体調を崩され、入退院を繰り返し、その間に骨折もされたりして、昨年十二月から施設にいる。施設から送られてきた作品を何作か添削させていただいた。だが、ご主人が亡くなられたことは、一切語られていなかった。

 ご主人を亡くされた貞子さんの喪失感は、察するに余りある。亡くなられてすでに四年になるが、ご主人のことを書くには、相応の時間が必要なのだろう。

 貞子さんは作品の中で、次のように語られている。

「……丈夫で長生きして、エッセーをたくさん書き、生きた証を残したい。心からそう願っている。だから休んでなんかいられない、とついつい思ってしまうのだ」

 貞子さんは本書により、一つの大きな金字塔を打ち立てられた。お子様方、お孫さんたち、そして未来につながるそのまたお子さんが、折に触れ本書を手に取られることがあるだろう。貞子さんの尽きない探求心と創作意欲により、これからも本書の追記作品が生み出されることを願ってやまない。

  2020年9月1日 随筆春秋代表 近 藤 健