近藤 健が校閲とあとがきを担当しました。
「あとがき」全文
山田聖都さんの『随筆春秋』デビューは二〇〇〇年秋の十四号だという。つまり、今年がちょうど二十年という節目の年になる。きっかけは、奥様の幸子様が東京・国分寺市の朝日カルチャーセンターの斎藤信也エッセイ講座を受講されており、それで斎藤先生が代表を務めていたエッセイの同人誌である随筆春秋に直接入会したのが始まりだという。それまではNHKの通信講座で自分史の書き方を学んだ程度で、文学とは無縁だったというから驚きである。
今回、エッセイ集の発刊に当たり、随筆春秋事務局から「あとがき」の依頼を受けた。ゲラが届いたのが二〇一九年十一月十日前後のことである。そのゲラに添えられていた事務局からのメッセージに愕然とした。山田さんの奥様が十一月七日に急逝されました、とあったのだ。山田さんのご心中を察し、呆然としてしまった。
六十年も連れ添った妻が、何の前触れもなく突然逝ってしまう。その現実をどうやって受け止めるのか。受け止められるはずがない。あまりにも大きな哀しみと深い喪失感は、察するに余りある。エッセイ集どころではないだろう。私は机の上に置いた分厚いゲラを前に、動けなくなってしまった。
私は二〇〇三年春の十九号が随筆春秋でのスタートだから、山田さんは二年半ほど先輩になる。年齢は三十年も大先輩だ。山田さんはこの十二月に八十九歳になられた。これにも驚いた。九十歳に手のかかるご年齢である。どのような方なのだろうという思いが、私の中で大きくなっていた。私は山田さんとの面識はほとんどない。数年前、随筆春秋の授賞式会場で、一度だけお目にかかったことがある。そのとき、司会者と山田さんとのやり取りで、お名前を「まさくに」さんとお読みすることを知った。接点は、それだけである。もちろん、山田さんの作品は、何年もの間読ませていただき、よく存じ上げていた。
プロフィールを拝見すると、山田さんは大学を卒業されてから、法務省法務教官として少年院更生担当の道を一筋に歩まれている。三十五年の在任期間中、北海道から名古屋まで十度にわたる転勤を経験されてきた。
ひとえに少年院の法務教官といっても、そのご苦労たるや並大抵ではないと想像できる。少年たちが自分の人生を歩み直す、そのサポートがお仕事である。道を踏み誤った少年に寄り添い、時間をかけて本心を聞きながら教育指導や職業指導を行っていく。一筋縄ではいかない仕事である。
そんな中、三十代の最後の歳にフランス政府から選抜され、フランス国際行政研究所への留学をなさる。この二年間にわたるフランス留学は、山田さんに大きな影響を与えた。そのことは行間から溢れる思いとなって、数多くの作品として結実している。
山田さんの作品はすべからく穏やかである。作品自体が爽やかで、洋風でも中華でもなく、それはまさに和のテイストであり、極上の出汁を口にしたときに覚える、うま味と透明感のある後味である。衒いがあるわけでもなく、肩の力の抜けた自然体の筆致に心地よさがある。上質のエッセイを読ませていただいたという思いが胸に満ちる、そんな作品群である。
しかも、一作一作の締めくくりが、実に小気味いい。サッと締めくくって、ピタリと決めてくる。体操競技の床運動や鞍馬、跳馬、鉄棒などで、着地をピタリと決めてくる姿に重なる。起承転結の「転」はクライマックスだが、転までに織りなされた葛藤が急転直下解決し、一気に下降して結末へと向かっていく。そのピタリと止まる「動」から「静」への移行は、静かな余韻と情緒的な感動をもたらしてくれる。山田さんの作品を読んでいると、そんな連想が浮かぶ。
このエッセイ集には、法務教官としてのエピソードは「紅白まんじゅう」一作だけで、それ以外は一切つづられていない。もったいないなと思うのだが、公務員としての守秘義務を生涯遵守しようとする山田さんの固い決意が感じ取れる。それも山田さんらしいところなのだろうなと感じた。エッセイは緩急バラエティーに富んでおり、ご本人の多才さを存分に窺わせて読者を飽きさせないものとなっている。
十二月になって、遺品の中から奥様のエッセイが数編出てきたという。そこで、急遽このエッセイ集に収録することになった。エッセイ集の発刊が前後一ヵ月ズレていたら、収録はかなわなかっただろう。最良の収まりどころをみつけて、よかったと思った。
山田さんご夫妻は、伊勢湾台風(昭和三十四年)の翌日に名古屋で結婚式を挙げられている。それを題材にした山田さんの「大荒れのあと」と奥様の「結婚記念日」は、図らずもこの作品集に大きなアクセントを添えるものとなった。
奥様のご冥福を心からお祈り申し上げる次第である。
2019年12月18日 随筆春秋代表 近 藤 健