崔宣葉作品紹介

大宰府天満宮へ

「しばらく旅に出るのはいいものですよ。心が晴れ晴れして、きっと新たな発見を与えてくれるでしょう」

 この一文は吉田兼好『徒然草』の第一五段である。

 

二〇二二年三月二十六日から三十日にかけて、私は中学二年生になる孫の麻里と旅行することになった。広島経由で福岡市の太宰府天満宮への旅行である。太宰府天満宮は平安前期の学者で政治家、文人の誉れ高い菅原道真公を祀った宮である。彼は無実ながら政略により京都から太宰府に流されてこの地で没した。

麻里は昨年暮れ、それまでの一年三カ月の間患っていた「起立性調節障害」から、ようやく回復しかけていた。とはいえ、不登校の状態から抜け出せたわけではなかった。

中学一年の十一月のある朝、麻里を激しい頭痛と眩暈めまいと吐き気が襲った。日を追うごとにベッドから立ち上がれなくなり、歯ブラシすら持てなくなった。食欲は減退し、体は日に日にやせ細っていく。

麻里の母親の柚希ゆずきは、溢れる情報や友人のアドバイスを頼りに、様々な医院の門戸叩いた。病名が起立性調節障害と判明したのは、この病の諸症状が出始めてから半年以上経ってからのことだ。麻里はすでに不登校に陥っていた。当然、成績は下がり体はやせ細り、すべてに自信を失っていた。

思春期に多いというこの病は自律神経の異状で循環器の調節が上手くいかなくなる疾患だという。この時期は心身の成長のアンバランスから重軽の差はあるものの、多くの児童が経験する病気だという。一過性の流行り病のように体験する児童もいる。麻里の神経質で生真面目でストレスを溜めやすい性格は、第二次性徴期と重なり、起立性調節障害を深刻な状態にしていた。

コロナ禍にあり、離れて暮らす私が麻里を見舞ったのは、彼女が中学二年生に進級した六月だった。振り返ってみれば、この時期が彼女にとって一番つらい時だった。

麻里と柚希の母娘関係も悪くなる一方だった。この日、私が目の当たりにしたのは二人の言い争う姿だった。麻里の母親に向ける目には、私がハッとするような憎しみが込められていた。いままでみたことのない目の色に私は戸惑った。

自分の力ではどうすることもできない現実に苛立ち、怒りと焦りに押しつぶされている麻里がいた。十四歳の少女の精いっぱいの抵抗は、母親を攻撃することだった。柚希は無力な自分を責め、彼女もまた精神的に追い詰められていた。こんな状態が続けば、家庭崩壊を引き起こしかねない。将来的には麻里のニートも予想される。

それから私は、娘の柚希を時々映画鑑賞に誘った。彼女の心の支えになりたかった。そんな十月のある日、映画を観終えて、私たちは軽いランチタイムを持った。柚希の横顔には、これまでにない濃い苦悩の色が浮かんでいた。

彼女はしみじみとした口調で、

「お母さん、苦労のない人生なんてないんだね」

と、つぶやいた。

彼女は四人兄弟の末っ子として家族に愛されて成長した。その後の結婚生活も一男一女に恵まれて、平凡ながら幸せを絵に描いたような人生を送っていた。麻里は学校での成績もよく、人前でも臆せず研究成果などを発表するのを得意とした。そんな平和な生活が、ある日を境にもろくも崩れていった。

私は起立性調節障害の生徒を指導した経験のある友人から、本人が希望と目標を持つことができたら、解決は早いとアドバイスを受けていた。

初冬に入ったある日、私はピンクとオレンジ色と黄色のガーベラの花束を持って娘の家を訪ねた。麻里が一人で留守番をしていた。私が差し出した花束を受け取った麻里の目は輝いた。そして、綺麗だね、ありがとうの言葉を繰り返した。六月に会った時と明らかに違う様子だった。目に優しさを宿し、頬も少しふっくらして見えた。聞けば、カイロプラクティック治療を受けてから、体調が整ってきたという。しかし、まだ登校できる日は多くなかった。

カイロプラクティック治療とは、服薬に頼らず神経の働きを良くし、患者自身が持つ体内治癒力を活用する自然療法らしい。背骨、骨格の調整、姿勢体操なども行うという。回復には個人差があるが、時間を要すると柚希から聞かされた。

 

私は麻里の背中をさすりながらハグをした。そんな私に彼女は身を預けてきた。そっと抱きしめる。肉の薄い肩が痛々しく、愛おしい。その後、私は持参した自作の『脳はすけマン』というエッセイを彼女の前に置いた。その題名を見た麻里はいぶかに私の顔を見た。そこで私は自分の頭を指さして持論を展開した。

「麻里ちゃん、人間には誰にでも自分を助けてくれる脳という助っ人がいるのよ。どんな相談にも乗ってくれるの」

麻里は好奇心に満ちた目で私を見つめた。私は内心、確かな手ごたえを感じた。これはいけるかもしれないと。

そこで、君の今の夢は何かと訊ねた。彼女は格好よく制服を着こなして、可愛い女子高生になりたいと言う。何とも可愛らしい夢ではないか。しかし、彼女いわく、中学二年生の間はほとんど学校にいけていないから、このままでは受験期を乗り越えられないと。

そこで私は話を『脳は助っ人マン』に戻して、力強く言った。

「できるよ、麻里ちゃん。自分の脳、もう一人の自分に相談すればいいのよ」

ぴんとこない麻里に、私はなおも続けた。

「なぜ、自分が今のような不健康な状態になったのか、どうすればこの苦境から抜け出すことができるのかを繰り返し自身に問いかけるのよ。答えはあなたの中にきっとあるから」と

そして、来年の春休みには一緒に旅行しようと持ちかけた。登山や旅行の好きな私はその醍醐味だいごみを語って聞かせた。非日常という空間で、これまでに見たことのない景色や味わったことのない生活に触れると、人は脳内革命を起こすの、と。能内革命とは大げさかもしれないが、麻里はこれに興味を示した。

この時、私の頭に閃くものがあった。それは次女が暮らす広島、福岡の保育園で栄養士として働く二十三歳のもう一人の孫娘、詩織の存在だった。そこまで行けば、太宰府天満宮はすぐだ。

麻里が暮らす神戸から太宰府天満宮はまでの距離は、往復で約一三〇〇〇キロ弱だ。彼女たちにも麻里の受け入れを協力してもらおうと思った。旅の青写真は出来上がった。太宰府天満宮は受験祈願の聖地である。

懸念されるのは麻里の持久力である。彼女がこの旅を制覇できれば、体力にも自信をもてるだろう。そして、受験生としてのスタートを切るのも夢ではない。

春休みまであと四か月ある。この間に、麻里が、どれだけ意識的に自身の病気回復に努められるかである。若い肉体は、ちょっとしたきっかけで驚くような回復を見せる。私はそれに賭けようと思った。

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