崔宣葉作品紹介

 

続・大宰府天満宮へ

二〇二二年三月二十六日、私はこの日、予てから予定していた北野天満宮へ旅行することになった。孫の麻里が一緒である。神戸・三宮駅近くの喫茶店、カトレアで待ち合わせをしたのだが、私が約束の時間より早く着いた。

外は雨だ。楽しいはずの旅行気分に水を差す。しかし、新型コロナウィルスのマンボウ(まん延防止等重点措置)が解除されたということが、気分を和らげてくれている。時計を見ると、約束の時間まで三十分もある。麻里は母親の柚希ゆずきと一緒に現れるだろう。彼女が単身、五日間も家を離れるのは初めてのはずだ。緊張しているのではないだろうか。

四カ月前、私が麻里をこの旅行に誘ったとき、彼女は「起立性調節障害」を患っていた。この病気の特徴として、眩暈めまいや頭痛など辛い症状が起きるのは午前中に集中しているという。午後からはけろりとしているので、怠け病と誤解されることも多いらしい。しかし、病状は千差万別のようだ。彼女の場合、医者からは体育の授業は見学を勧められており、走ったり、激しい体の動きなどは禁じられていた。

旅行は五日間に及ぶ。神戸から福岡間を往復する道のりは約一三〇〇〇キロだ。それをこなせるだけの体力を、彼女はどう養ったのだろう。聞いてみると、旅行を意識してからの麻里の生活は変わったらしい。散歩を心がけ、弟とカラオケに行った気分で、マイクを持ち、歌い踊った。それらが功を奏したのか食事の量も増えた。そしてそれまで繰り返していた嘔吐おうとや、下痢の回数が減ったと柚希は喜んでいた。

私はそんな麻里を連れて、この旅行をどんなものにしようかと、あれこれ考えた。ただの遊覧的なものに終えるか、それとも高校受験に対する心構えを促すものにしようか。それにしてもあまり講釈がましくなってはいけない等々。

やがて二人は現れた。麻里のカジュアルな服装は好ましい。ストレートの黒髪が肩の下で揺れている。一六〇センチある身長は肉付きが薄い。だが、病人が持つ暗さはない。彼女は私を見て微笑えむも緊張気味だ。そんな気持ちを和らげるために、私は、広島の家に駿しゅんがいることを告げた。

それを聞いた麻里は嬉しそうに目を輝かせた。駿は大学三年生のりんの息子である。彼は優しい。相手の目線に合わせて、話すし遊ぶ。だから従兄妹の中では人気者だ。
 
柚希の見送りを受けて山陽新幹線は新神戸駅を離れた。広島の駅で次女の凛が待ってくれている。翌日は、彼女の運転で山陽道を福岡に向けて走ることになる。麻里は緊張が解けたのか、うとうとし始めた。聞けば、昨夜はやはり寝付けなかったという。やがて、健やかな寝息が聞こえてきた。

それにしてもトンネルが多い。入ったと思ったら、出る。そしてまた入る。広島までの路線はこの繰り返しだ。見晴らしは望めない。手持無沙汰の私は、本でも読もうかとカバンの中を探っていたら、先ほど柚希から渡された封筒が出てきた。

何が書いてあるのだろう。まあ、五日間、宜しくお願いします、くらいのことだろうと思ったら、内容は深刻なものだった。というのは、麻里の起立性調節障害は私が考えているような単純なものではないらしいということだった。

初めに封筒から出てきたのは、「起立性調節障害baby stepで行こう」と記された印刷物だった。同じ病を持つ親同士の会があり、お互いの経験を交換し合う。中には、児童精神科医のアドバイスを受けながら、子供がそれぞれのペースでこの病を克服していく経過や体験などが語られている。柚希はここから多くのことを学んでいるようだった。そして、彼女からの簡単なメッセージが添えられていた。

この病は急激な身体発育の思春期に、そのアンバランスがゆえに起こる自律神経機能失調性である。原因は個人の資質により千差万別である。ゆえに、克服の道のりも、かかる時間もまた千差万別なのだと。柚希は一年半、娘と共に苦しみ、七転び八起きしながらも、いまだ完治には及んでいない旨をつづっていた。だから、私にも早期解決を意気込まないでほしいと牽制けんせいしているのだ。

それらを読み終えて、私はこの病気に関して、自分が正しい知識を持ち合わせていなかったこと反省した。私は「起立性調節障baby step で行こう」の印刷物を繰り返し読んだ。

さて広島駅で凛の迎えの車に乗り込み、彼女のアパートへ。ドアを開け、リビングに入ってびっくり。二羽の桜インコが室内を飛び交っている。一日に一時間、鳥かごから出すのだという。そして十歳になるトイプードルのクロの歓迎。ここはミニ動物園? と言いながら麻里のはしゃぐ声が上がる。彼女は動物好きだ。

そこへ、一仕事を終えた駿が自室から出てきた。仕事とは、通っている大学から出されている何某(なにがし)の資料の整理で、アルバイトらしい。彼も麻里の病状を知っている。従妹を満面の笑みで迎えてくれる駿。そして彼は早速、麻里をクロの散歩に誘った。

凛は離婚して十年になる。専業主婦だった彼女は今、大手ジムに所属しながらフリーランスとして活躍している。パーソナルトレーナー兼ヨガ・インストラクターだ。二年前から、地方の某テレビ局に出演している。パワフルな彼女が今回の旅行の一翼を担ってくれた。

私は先ほどの柚希からのメッセージを、凛に伝えた。傍目には回復していているように見えても、実は、まだ頭と体と心のバランスが取れていない状態であることを。麻里は読書家で好奇心も旺盛だ。政治について語らせれば、大人顔負けのしっかりした見解を述べる。クラスメートも彼女に親切だ。しかし、不登校を克服できない。難解な病気なのである。

やがて、散歩を終えて頬を紅潮させた麻里と駿とクロが帰ってきた。麻里の生気のみなぎった様子を見た時、私はおや? と思った。すると、駿が胸を張って面白いことを言い始めたのである。

「ばぁば、麻里はもう大丈夫や、俺が自分のサクセスストーリーを話して聞かせたからな。俺が中高生の時、どれだけ凄い落ちこぼれだったか。そんな俺が、ある朝、目覚めてこんなことではいかんって思ったこと。よしっ、やるぞって腹を決めてから、死に物狂いで頑張った。一日に十時間、勉強したもんな。人間、腹を決めたらできるんや、ってな」

麻里は微笑んでいた。私と凛は、あぁそうやったなという思いで、彼の話を聞いていた。これが、後に、麻里に大きな影響を与えることになった。

二十七日は朝から雲一つない晴天だった。午前九時、私たち三人が乗った車は、高速道路・山陽道に入った。福岡までの所要時間は休憩時間をいれて、凡そ四時間を見ていた。麻里は後部座席で、一人の世界に浸っている。聞いている音楽はボカロだそうだ。

その後、私たちは「壇ノ浦サービスパーキング」で休憩を取った。関門海峡が眼下に広がる、窓辺に席を取る。空、山、海面が濃淡を織りなしながら、眩しい青の世界を演出する。波一つない静かな海峡だ。ここが八百数十年前、船団を組み、熾烈しれつな源平合戦が繰り広げられた海とは信じられなかった。今はただ、観光船が数隻、静かな海原に白い飛沫しぶきをたてながら行き来する。

再び出発だ。車は関門橋を渡る。九州に入ったのだ。凛が麻里に向かって、詩織に会ったら何をして遊ぶ? と聞いた。麻里はコスメをしたいと言う。コスメとは簡単にいうと、おしゃれ、化粧を楽しむことらしい。それ用の専門店もあるとか。私には分からない世界である。

麻里いわく、優しくて美人で賢い詩織は、彼女の憧れの人だという。二人の年齢差は十歳ある。詩織は笑顔で麻里を抱きしめた。ほのぼのとする光景だ。一休みした後、私たちは、早速、コスメショップへ向かった。

食事や入浴を済ませると、若い二人は待っていましたとばかりに、髪の毛にカールと巻き、爪にはネイルを施した。変身に余念がない。不慣れな麻里には詩織が手ほどきをして、凛はヘヤースタイルを担当する。

出来上がると次ぎは写真撮影だ。前を向いてとか、もっと斜めにとか、顎を引くのよとカメラマンは注文をつける。皆、生き生きしている。女性とは不思議なものだと、私は思った。

次の日の朝は、最終目的地の太宰府天満宮だ。石造りの大きな鳥居の前で一礼。手を清めた後、黒光りする「御神牛」を囲み、みんなで記念撮影だ。お参りを済ませて、絵馬を書く段階になって麻里が躊躇(ちゅうちょ)した。高校受験の合格を祈願したいのだが、自信がない。それを察した詩織が、気軽に書きなと背中を押す。麻里は意を決したようにぺんを取った。

菅原道真公が愛した伝説の「飛梅とびうめ」は、今年の春の役目を終えてひっそりとたたずんでいる。私が心を強く引かれたのは樹齢一四〇〇年ともいわれる大楠おおぐすである。根回り二〇メートル、樹高三三メートルの国指定天然記念物だ。囲いがあって入れなかったが、木の真下に立つと鬱蒼うっそうと茂る枝葉のために、天空は望めないのだろう。この巨木を支える根は、地中にどれだけ深く広く張っているのか想像もつかない。

それから私たちは、門前町の外れにある喫茶店に入った。店内は込み合っていた。ちょっと待つと、丁度いいように二人用のテーブルが二つ空いた。詩織と麻里、私と凛という風に席に着いた。若い二人は何かを話しては短く笑う。楽しそうだ。そのうちに、麻里は詩織の話に聞き入り、時々、相槌あいづちを打つように頷いている。

私と凛はそんな二人の様子を、離れた席から見ていた。何を話し合っているのか、興味を引かれたが、距離があって聞こえない。かなり前の話だが、長女とは割に合わないものだと、詩織が麻里にこぼしていたことがあった。弟の悪戯いたずらの罰を、親は連帯責任だと言って、姉の自分にも同じように課すのだと。麻里にも弟がいる。その時、二人は共感しあっただろう。

ここ、太宰府天満宮に無事到着したことで、この旅の目的の半分以上は達成したことになる。私はほっとしていた。心配した麻里の持久力には問題なかった。そして、彼女が心の羽を広げ、楽しい時間を過ごしている様子を見ることもできた。

広島を離れる日、私たちは広島駅のグルメ街で博多ラーメンを食べた。大きな器に食欲をそそるスープの香り。具も盛りだくさんだ。私と凛はそれに即決。麻里は考え込んでいる。食べきれなかったどうしようとかと、心配しているのだ。

凛は、全部食べ切れなかったら、自分が手伝うからと励まし、三人が同じものを注文することになった。案ずるより、何とやらで、麻里はスープを少し残しただけだった。私と凛は目を見合わせて、テーブルの下でⅤサインをした。

こうして、麻里を連れての太宰府天満宮への、四泊五日の旅行は無事終了した。自宅へ戻った彼女は、家族に旅の思い出を楽しく語った。中でも、駿の励ましの言葉や、詩織との触れ合いが、彼女に大きな力を与えたようだった。それからの数日、麻里は頑張った。一日に三、四時間も学習に打ち込んだのである。それまでは、なかった光景だった。

ようやく、麻里は起立性調節障害から抜け出せたのか。いやそうではなかった。そう簡単には、この病は麻里を解放してくれなかった。当初は従姉弟たちから受け影響が、麻里を再生への強い意思として働いた。しかし、まだその意思を貫けるだけの、彼女の内的要因が、十分に整っていなかった。麻里は再び熱を出したり、立ち上がれなくなったりと、病の症状がリバウンドした。

前述したようにこの病は頭(脳機能)と体と心のバランスが崩れてしまうのである。体は快復したように見えても、まだ、頭と心がついてこないのだ。この病気を患ってから、麻里が失ったものは大きい。彼女の脳はそれを記憶している。それがゆえに、失敗が怖いのだ。麻里の希望的な頑張りだけではことを成せない。

そうこうしながらも、麻里は少しずつ前進していった。四月になり三年生に進学した。けつまろびつしながらも、登校できる日が増えていった。担任の先生も級友たちも麻里を温かく迎えてくれた。おかげで、彼女はクラスで浮いた存在にならずにすんだ。

私は六月に入り、久しぶりに柚希に電話をした。すると、一昨日から麻里は二泊三日の修学旅行に行ったという。私はその成長ぶりに驚いた。しかし、柚希は、登校できる日が多くなったのに、進路指導に話を向けると、全く話に乗ってこない麻里に、苛立っていた。受験生を持つ親なら致し方ない。

しかし、私は、麻里は外堀から埋め始めているのではないかと思った。彼女が意識してそうなのか、脳内事情がそうさせているのかは分からない。中学二年生の間は、ほぼ登校できていない。当然、その間の学業は成していないことになる。進学問題は彼女にとって難攻不落の本丸なのだ。しかしながら、私には、彼女は黙々と着実に、病気快復への道のりを歩んでいるような気がした。

自分一人の意思ではどうにもならない病気だ。彼女の脳内事情が、あるいは体内臓器が、互いにメッセージを交わしながら、快復への道のりへと、麻里を導いているのかもしれない。麻里は本能的に光の方向へと歩んでいるのではないか。

ここは、もう一つ、まわりが辛抱強くふんばろうと、私と柚希はお互いを励まし合った。一三〇〇キロの太宰府天満宮への旅は、無駄ではなかったのだ。麻里にはまだ、そうとはっきり認識できていないだろう。しかし、彼女に大きな自信を与えたことは間違いなかった。

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