第3編 思わずこだわってしまった泡沫話

第3編 思わずこだわってしまった泡沫うたかた

―――たまたま知った関心事についつい深入りしていました――

 

 

03.  ヘルプマークの逆 あいサポート運動

03-1. 登別市連町の「運動」評価

 

   


『室蘭民報』2018年6月18日付け朝刊の記事「登別市連合町内会が優良連合組織表彰受賞」を読んだ。

地域住民にとっては、長年地道に汗した歩みが結実した誇らしい報道だったであろう。

あいサポートバッジ

感慨深く目を止めたのは、重点事業の1つ「あいサポート運動」推進が評価されたからである。

今、東京都が発信源の「ヘルプマーク」が全国的に注目されているが、その3年前の2009年11月に鳥取県が取り組みを始め、現在11道府県に普及しているのが「あいサポート運動」である。

北海道内で実施しているのは登別市だけである。

類似の運動の多くが障害者ら配慮を求める側からの要請が主眼なのに対し、「あいサポート」は配慮を行う側の実践(愛、I、合い)が主眼である。

小学生から助け合い精神を養う登別市の取り組みを評価したい。

障害の有無や民族の違いを超えた誰もが暮らしやすい共生社会の実現は、北海道では胆振地方から、と言えるだろう。そんな気がしてきた。

 (2018年6月25日、日刊紙『室蘭民報』「むろみんトーク」欄投稿掲載。一部加筆)

 

03-2. 『この子らを世の光に』

 

   


私が冬眠から目覚めて行動を開始したのは、2016年4月1日であった。「障害者差別解消法」が施行されたのもこの日からであった。この法律は、誰もが障がいの有無によって分け隔てられることなく、お互いに人格と個性を尊重し合いながら暮らすことができる社会の実現を目的として制定された。

この法律と同じ目的のものに「あいサポート運動」がある。「あいサポート」とは、愛情の「愛」、私の「I」、支え合いの「合い」に共通する「あい」と、支える、応援する意味の「サポート」を組み合わせ、障がいのある方をやさしく支え、自分の意志で行動することを意味する。この運動は、既に2009年11月28日に鳥取県で創設され、中国地方を中心に徐々に広がり、全国的に展開されるまでになっていた。

発祥の地が、なぜ東京都などの都市部ではなく、鳥取県なのか。まず、素朴な疑問をいだくであろう。ヒントは、この運動を実践する「あいサポーター」が身に付けている「あいサポートバッジ」にある。

2つのハートを重ねることで、障がいのある方を支える「心」を表現している。後ろの白いハートは、障がいのある方を支える様子を表すとともに、「Supporter(サポーター)」の「S」を表現している。

ベースになっている「橙色(だいだいいろ)」は、「社会福祉の父」の1人とも呼ばれる糸賀いとが一雄かずおが遺した「この子らを世の光に」という言葉の「光」や「温かさ」をイメージしているのだそうだ。また、「だいだい(代々)」にちなみ、あいサポーターが増えて、共生社会の実現が達成される期待も込められている。

糸賀は、実は鳥取県出身であった。つまり、この運動は糸賀思想(人間尊重の福祉)の伝承の1つとして鳥取県から始まったのである。

私が児童福祉の分野で働き始め、「この子らに世の光を」と奮闘していたとき、日本初の重症心身障害児施設「びわこ学園」を創設した糸賀が『この子らを世の光に』←CLICK!|書籍画像)を出版し、私たちをも驚かせた。

重い障がいを持つ子は、人として光り輝く存在であり、自分もまた同じ存在である。そのことを支えていく気持ちや行動は世の中で当たり前の事なのだと説いた。この本を著した糸賀は、その2年10か月後、「この子らを世の光に」を説く講演の席上、持病で倒れ逝去した。

その後私は、縁あって保育者養成短大の教壇に立つことになったが、「この子らに世の光を」と「この子らを世の光に」を並べて板書し、「に」と「を」が入れかわるだけで、どんな意味の違いになるかを学生と共に考え合う機会を設けていた。

(2018年6月25日、個人仮想作品集『無意根山を望む窓』収録)

 

03-3.  差別化 別の表現にしては

 

   


私はどうしても「差別化」という言葉になじめない。以前から使われているビジネス用語とはわかっていても、いつも違和感を覚えてしまう。

辞書には、意味として「他との違いを明確にして、独自性を積極的に示すこと」、用例として「他社製品との……を図る」などと載っている。

ただ、「差別」という言葉は「区別すること」という意味もあるが、普通は「人種差別」や「差別や偏見」のように、「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」という悪い意味で使うことが多い。

それが「差別化」と1文字増えるだけで、何かよいこと、前向きなもののように使われるのは、やはり変ではないか。今では新聞でもテレビでもよく見聞きするが、「差別化」という言葉を安易に使うことで、「差別」という言葉や行為に鈍感になってしまう危険はないだろうか。

「差別化」という言葉はやめ、「差異化」「独自化」など、別の言葉で表現したほうが好ましいと思うが、いかがであろうか。

 (2017年5月29日、日刊紙『朝日新聞』「声」欄投稿掲載)