第3編 思わずこだわってしまった泡沫話
―――たまたま知った関心事についつい深入りしていました――
01. 冬眠10年からの目覚め
ページコンテンツ
01-1. 開拓の歴史 調査に没頭
2016年、待望の『北海道史事典』が刊行された。これに刺激され、約120年前に誕生した故郷の当時の状況を『町史』で調べてみた。
その延長で、故郷の近隣で明治時代後半に次々と誕生した村(現在は町)などへも関心が向かい、町史などの調査にのめりこんだ。
主眼点は「村名と命名の由来、村域、開村(または分村)の日付、戸長役場の開庁日、初代戸長名、所在地名(当時、現在の字名)」で、これらが欠落や誤記、混同のない形で『◯◯町史』に記されているか、まず確認した。
そして道庁告示など他の諸史料とも照合し、必要に応じて現町役場にも照会するなどして、自分なりに検証してみた。
結果は多様で、根拠をしっかり示した説得力ある記述もあれば、村名以外は曖昧、不明確のものもあった。
多かったのは、開村日と開庁日の混同、誤認、誤記だった。一方でよくぞ残した、探し出したという記録もあった。
感じたのは、どこの村の夜明けも開拓の希望=苦労だったということである。
各町史に「温故知新」の思いは確かに記されていた。
「記録遺産」の重みを味わった意義深い1年であった。
(2016年12月23日、日刊紙『北海道新聞』「読者の声、テーマー:この1年」欄投稿掲載、一部加筆)
01-2. 鉄道駅「碧水」のルーツ
2016年3月26日、津軽海峡を一気に渡る北海道新幹線が開通した。同時に、かつて国鉄時代、故郷を走っていた札沼線の残線端部がとうとう1日1往復となった。
この日、札沼線で実家のすぐそばにあった故郷の駅「碧水」(←CLICK!|現在の碧水)に想いが及んだ。ふと、私のペンネームでもある駅のルーツを調べてみようか、との気持ちになった。
思い立ったが吉日、早速、市の図書館へ向かった。いくつか書架を巡って、格好の『北海道の駅878ものがたり―駅名のルーツ探究―』(2004年発行)を見つけた。
ラッキーなことに、はるか遠い昔に廃止された路線の廃駅なのに記載されていた。借り出してじっくり確認することにした。
設置経過は詳細かつ明快に示されていた。要点を示せば、1931(昭和6)年10月10日開駅。戦争でレールは撤去され樺太へ。終戦11年後に再開も、赤字続きで1972(昭和47)年6月19日、廃止。
だが、ルーツの説明を読んで驚き、「エーッ!」と叫んでしまった。
「雨竜郡一帯は水が濁っているが、この地方だけすんでいるので『碧水』と名づけた」
とあったからである。
素っ気ない説明だ。納得がいかない。手間ひまかかり、不明に終わるかもしれないが、覚悟して真相究明に取り組むことにした。
参考文献の確認で、この本の種本は『北海道/駅名の起源、1973年版』(←CLICK!|ページ閲覧)だと判明した。調べてみると、この本の当該記事と一致した。これからの転載だとなれば、源典は1973年以前の文献だということになる。
『北海道/駅名の起源』は、国営の経営母体によって半ば編集・発行されてきた国鉄駅等のガイドブックである。初版は1929(昭和4)年発行。以来、1987(昭和62)年の国鉄分割民営化まで約60年間にわたって発行され続けてきたロングセラーである。
この間、広く旅行者などに利用されたので、新路線・新駅の開業にも即応する形で増補改訂も重ねてきた。そのため、頻繁に初版本を発行してきたに等しいものであった。
初版から最終版までの発行期間の中間ぐらいの時点で、太平洋戦争終戦後の改訂版『1950年版』を探してみた。
だが、これには、レールが撤去され、運行されていない休線の駅は、載せられていなかった。札沼線の「碧水駅」は1944(昭和19)年7月に休止になったままだった。
次の探索は、内容充実の改訂がなされたとされる『1962年版』である。予想どおり1956年11月再開の札沼線は掲載されていた。だが、内容は『1973年版』と同じだった。
これによって、再開後は同じ説明で駅の起源が語られてきたと判断できる。
次は、路線の休止以前の部分の調査である。
1938(昭和13)年9月に発行されたもの(←CLICK!|ページ閲覧)を見つけた。開通してから7年も後のものだが、やっと探し得た直近の貴重本だ。
この中には、予想通り開業された札沼北線の駅が掲載されていて、「碧水駅」も載せられていた。解説を読んで、びっくり! 今度は歓喜の驚きであった。
「当地開拓者渡邊八右衛門氏は、子弟の教育に意を用い、明治36年4月寺子屋式の小学校を設け、以来年と共に隆盛になり、遂に現在に及んだのである。部落民が同氏の徳を永く讃えるために、その雅号磐水を採って校名としたが、他にも同一名の学校があるので碧水と改めた。その後、地名もまたこれを採るようになったといわれる」
昔、聞いていた話を思い出した。やっと出合った感動の史料と言っても過言ではない! だが、残念ながら、肝心の由来は不明だ。
ところで、新旧の記述内容はずいぶん違う。なぜこうも違うのか。各版の執筆者は、以前の内容を精査し改善し、書き換えたはずだ。それなのに、説明は逆(?)だ。駅名由来の説明にも、戦争の影響が及んでいたのか。
調べてみると、隣駅の「和」も「北竜」も記述内容が違っていた。たぶん、他の駅の説明でも……。疑念はいっそう増した。
今も『北海道の駅878ものがたり』は流通している。『1962年版』から「雨竜郡一帯は水が濁っているが、この地方だけすんでいるので、『碧水』と名づけた」という解説が続いてきたとすれば、半世紀以上にわたって膨大な数の本の中で新説(適当説?)が平然と伝えられてきたことになる。
『北海道/駅名の起源』は、地名・郵便局名・神社名など、他の解説書への引用例も孫引きも、たぶん膨大にあるだろう。
半年以上を費やした駅名を手掛かりとした調査だったが、究明どころか、むしろ謎を更に加えて、振り出しに戻った感がした。
故郷への想いが、また熱く燃えてきた。
批評や不信の指摘に終わるのは本意ではない。史実・史料で示す「これだ!」という納得のいく真相を探さなければならない。そう思い、気を取り直して、ルーツ探索をまた一から始めることにした。
碧水駅は、さかのぼれば、地名・学校名の命名が前歴にある。地名解説や郷土史料のほうが、別観点からの意外な史実が得られるかもしれない。高揚感が再び湧いてきた。
(2021年9月10日発行公募ガイドエッセイ作品集『粋』収載。一部加筆)
01-3. 古里「碧水」地名考
作品「01-2. 鉄道駅『碧水』のルーツ」を、さらに踏み込んで探索を続け、ついに別の有力な由来情報を得るに至った過程をドキュメンタリー(記録)小説ふうにまとめたものである。(前半部分には、01-2の作品の経過も詳しく書き込んでいる)
(2022年10月29日、「文芸思潮」ウェブサイト「作品の広場(小説の広場)」収載。文芸誌『文芸思潮』第15回銀華文学賞第3次予選通過作品)
↓ここをクリック
01-4. (評論)北海道開拓文学の役割についての一考察
(本稿は2016年5月1日現在で書かれた作品で、文芸誌の「評論部門」に応募し落選したものであるが、未改稿のまま収録した)
1. はじめに―問題提起―
ここ40年ほどの間に発刊された地名辞典・事典を見て、考えさせられることがある。増加する地名変更のことである。
アイヌ語地名研究家として知られ、北海道の川や地名に造詣が深い山田秀三の著書の1冊に、その信頼性の高さからしばしば典拠とされる『北海道の地名』⑴(以下、山田辞典と略す)がある。その「序」で、山田は次のように述べている。
「北海道地名が、我々の時代にも多く変わって、アイヌ語系の地名も消えて行ったものが少なくない。アイヌ時代から開拓時代を通って来た歴史的地名を、内地にごろごろある、平凡で特色もない地名に置き替えられるのがもったいない。先輩の汗の滲んでいる地名の地方色こそがその土地土地の誇りなのではなかろうか。古くからの地名を大切にして行って戴きたいものである」(4頁)
全国規模の本格的な大辞典には、1987年に北海道編の上・下巻が発行された『角川日本地名大辞典』⑵(以下、角川大辞典と略す)がある。同時期発行の同名の月報⑶の中で、文芸評論家でドイツ文学者として名を馳せた小松伸六は「……北海道のあちらこちらで、難解だが懐かしい地名が消えてゆく。地名が変わることは、ふるさとをなくすことと同じである。地名変更は一種の暴力でないか、と私は思う」(7頁)と述べている。小松の言葉は、北海道で生まれ育っただけに、思い入れが強い表現となっているが、北海道には特有の地名が多いとされているだけに、同じ思いの人は今日も多いと思われる。
太古から地名への関心が深く根強いのは、地名が社会生活と密接・不可分な関係にあるばかりでなく、自然に対する愛着・畏敬などの念を地名からうかがい知ることができるからであろう。
この重要な役割を果たし、集団の心の古里として長期間継承されてきた地名も、その土地に現在住んでいる人々が命名の由来や経緯などを十分に知り、正しく理解していないと、市町村の合併や土地の区画整理などを機に、安易に記号的な言葉に置き換えてしまうことにもなりかねない。
それでは、実際に、地名の由来等がどの程度明らかにされており、一般の人々は何によってどの程度知り得るのであろうか。
2. 実例による地名調査の試み
本稿は、明治・大正時代を中心とした北海道開拓の時期に誕生した地名を取り上げ、その起源・由来をできるだけ正確かつ詳細に知ろうとする試みである。分量の関係上、任意的に選んだ4つの地名に限定する。
特定の地名について、その起源・由来を理解し、伝承的な意味を知る方法・手段はいくつもあるが、それぞれに長所・短所がある。
これらの比較検討は省略するが、広く多数の人々が手軽に行えるのは、網羅的な「地名辞典・事典」を調べる方法であろう。ここでは、身近に存在する一般的な地名辞典と詳しい地名事典とで検討する事例調査的方法を採用してみる。事例数と事例内字数との両面から、制限分量に対する調整を可能にする柔軟性があるからである。
一般的地名辞典には、先に挙げた『山田辞典』と『北海道地名分類字典』⑷(以下、本多辞典と略す)の2冊を、詳しい事典には、先に挙げた『角川大辞典』と『北海道の地名―日本歴史地名大系一』⑸(以下、平凡社事典と略す)の2冊を対象とした。
以上の4文献からの引用は、これらの順に、誤字等を含めて原文のまま転載し、地名の起源・由来に関係する一部分に限った。他の記述は、字数を抑えることから省略する。
この結果の考察では、必要に応じて裏付け文献に当たり、探し得た関係の文学作品等に著された記述内容にも言及してみる。
3. 文献の記述による事例検討
(1)北竜町の「和」(やわら)
最初の例は、空知総合振興局・雨竜郡北竜町の字名「和」を選んでみた。ちなみに、町名の由来は「分村に際して母村雨竜村の北に位置することにより命名」(『角川大辞典』下巻、1008頁)とされる。
まず、四文献の「和」についての関係部分を引用すると、次のように記述されている。
◎山田辞典(79頁に記載)……和(やわら)=ここの開拓者が郷里の千葉県矢原の名を採って名づけたのであるが、開拓の銘として「和」の字を当てて「やわら」と読むことにしたのだという。
◎本多辞典(237頁に記載)……和(やわら、空知・北竜(ほくりゅう)町の字名)=1893年に千葉県印旛(いんば)郡埜原(やはら)村出身の吉植庄一郎(よしうえ・しょういちろう)が25戸をつれて入植した。住民の一致協力を願い出身地名の音を借りた。「和をもって貴(とおと)しとす」との聖徳太子(しょうとく(たいし)へのあやかり・縁起地名の性格もある。
◎角川事典(上巻、1569頁に記載)……和(やわら、北竜町)=明治25年恵岱別川中流域205㏊の土地貸下げを受けた千葉県印旛郡埜原(やわら)村出身の吉植庄一郎が25戸を率いて入植したのが開拓の始まりである。地名は、聖徳太子の和を以て貴しとなしの精神と、入植者の郷里の地名埜原から名付けられた。吉植は、村を培うことは国の本なりとの考えから開拓団体培本社を組織した。
◎平凡社事典(1044頁に記載)…… (北竜村の記述から抜粋)=明治26年千葉県印旛(いんば)郡埜原(やわら)村(現同県本埜村)出身の吉植庄一郎は千葉団体25戸を入植させた。入植地を和と命名し、開墾会社は培本社(培本合資社)と称した。
最低限の由来の説明はなされている例と言える。補足すると、別の文献の一部には「野原村」という記述も見られるように、「埜」は「野」の古字である。「埜原」は、本来は「やはら」という読みであったが、人々の間に「やわら」と発音する人が多くなり、当時、すでに「やわら」と読むことが定着していたものと思われる。なお、山田辞典の矢原は間違い。元々千葉県に矢原はない。
(2)今金町の「神丘」(かみおか)
2番目は、桧山振興局・今金町の字名「神丘」。日本初の女医・荻野吟子と夫・志方之善らが入植し、神ヘの祈りと開懇作業に従事した土地として知られている。町名の由来は「開拓の先駆者である今村藤次郎・金森石郎の頭文字から命名」(『角川大辞典』下巻、1201頁)とされる。
4文献の「神丘」についての関係部分を引用すると、次のように記述されている。(以下、改行部分は追い込み処理)
◎山田辞典(451頁に記載)……「北海道駅名の起源」は「イマヌエルと名づけられるキリスト教徒の集団部落があり、神のいる丘の意味から神丘と名づけられ、駅名も神丘となった」と書いた。
◎本多辞典(300頁に記載)……聖書の「神我と共に存す」を信条に、1933年利別(としべつ)村インマヌエルから字名に。
◎角川事典(上巻、379頁に記載)……旧名インマヌエルは、「新約聖書」に基づき、「神我と共に存す」の意味である。当地はもと犬養毅らの国民党員が貸付けをうけた土地の一部。同志社の学生志方之善・丸山要次郎らは、キリスト教徒の新天地を北海道に建設しようと、犬養に面会して(中略)代耕を契約した。
◎平凡社事典(473頁に記載)……(利別教会の記述から抜粋)=明治24年(1891)京都同志社英学校の学生志方之善・丸山要次郎らは北海道にキリスト教徒の新天地建設を求め、(中略)政治家犬養毅らに代耕を求めて許され、利別原野に入植した。(中略)入植した字神丘(かみおか)の地を「神我と共に存す」の意味でインマヌエル(神丘)と名付けた。
4文献の記述からは、地名の由来らしいものは理解できても、明快な「神丘」の説明にはなっていないのではないか。「北海道駅名の起源」は引用した書名。山田辞典では「インマヌエル」の「ン」が脱字。
(3)岩見沢市の「志文」(しぶん)
3番目は、空知総合振興局・岩見沢市の町名「志文」。現在の長沼町の開拓を描いた有名な長編小説『馬追原野』(風土社、1942)を著した作家・辻村もと子(本名=元子)の出生地。市名の由来は「明治期、開拓使が幌内炭鉱への道路開削工事を進めた時、人々がこの地で河流に浴して疲れを癒したので 『ゆあみ沢』と称し、それが転訛したものと伝えられる」(『角川大辞典』下巻、209頁)とされる。
4文献の「志文」についての関係部分を引用すると、次のように記述されている。(以下、改行部分は追い込み処理)
◎山田辞典(42頁に記載)……「北海道駅名の起源」は「シュプン・ペッ(shupun-pet うぐい・川)からでたものである」と書いた。
◎本多辞典(91~92頁に記載)……シュプン・ペツ=ウグイの・川。
◎角川事典(上巻、661頁に記載)……地名の由来は、アイヌ語のシュプンペツ(うぐい・川の意)による。
◎平凡社事典(1004頁に記載)…… (志文町の記述から抜粋)=明治22年夕張鉄道のうち志文・幌向川までが竣工し、志文原野(幌向原野の一部)開発の端緒が開かれた。(中略)同25年には辻村直四郎(のち辻村農場主)が志文原野100町歩の開墾を志し、雇人1名とともに入植した。
3文献の記述は、アイヌ語が起源という点では一致している。語源らしいものは理解できても、とうてい地名「志文」に結びつくような理解は得られないのではないか。
(4)八雲町の「常丹」(とこたん)
4番目は、渡島総合振興局・八雲町の旧地名「常丹」。1956年の八雲町字名地番改正の際、新字名「熱田(あつた)」へ吸収されて消滅し、既に60年が経過。八雲町が「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(古事記)の歌にちなんで命名されたとされることから、町名自体が瑞祥地名の代表的なものとして、多く紹介されている。明治維新で禄を失い、生活に困窮する旧藩士の生計を確保するために北海道開拓を志した徳川家藩の最初の入植者は、1878(明治11)年秋にこの地に到着した。町名の由来は「徳川家旧家臣の入植に際して、旧尾張藩主徳川慶勝が『古事記』所載の須佐之男命の歌に因んで命名」(『角川大辞典』下巻、702~703頁)とされる。
4文献について「常丹」の項目を探したところ、どの辞典類にも見出しを付けた記載がない。あっても、「熱田」など他の説明の中に出てくる程度である。「トコタン」の項目は一部のものにみられるが、「廃村」というアイヌ語の意味の説明にとどまる。
この地名をあえて取り上げたのは、徳川家旧家臣が入植後、最初に選定・命名した土地は墓地であり、それが「常丹」であったことを紹介したかったからである。詳細は後半の説明で述べる。
4. 事例検討の結果からの考察
以上、限られた文献による少数の地名についてではあったが、事例調査的方法の検証の結果から推測すると、地名辞典・事典の記述によって過去・現在の地名の起源・由来を知ろうとしても、簡単な説明しか得られず、内容的にも乏しく、適正さの面でも欠けることが示唆された。端的に言って、的確で十分な情報を知ることは期待できない、とも言えるのではなかろうか。これらの説明から地名への愛着や畏敬などの念を感じ取ることができるかとなると、やはり疑問符が付く。
では、他の方法、あるいは補完する方法として何があるであろうか。
まず、多くの人は、ネットでの検索・調査を、簡便で現実的な有効手段として挙げるであろう。インターネット百科事典『ウィキペディア日本語版』や各種多様なホームページの活用である。ただ、現状の日本語情報・記事の蓄積は極めて貧弱であり、正確さの点で鵜呑みにできない情報・記事も少なくない。正確で洗練された史料も豊富に蓄積されるには、まだ時間を要するであろう。
次に、北海道の地名の起源・由来を調べる場合、特定の地に限るのであれば、道庁や市町村などが編集した開拓史・郷土史等に当たってみれば、目的の達成確率は高まるに違いない。とはいえ、主要なものは既に事典類に反映されている。詳細・特殊なものについては、各地の図書館・資料館の充実度によって、得られる情報は大きく異なる。
発想を変えて、北海道の開拓等を取り上げた小説・随筆等の文学作品から知るのはどうであろう。主観性・創作性を含み、正確さ・厳密さの点では劣る場合もあるかもしれない。しかし、わかりやすく、当時の情景を思い浮かべ、人々の情感を受け止めながら、印象深く読み進められる点では、現在、最も効果の期待できる方法ではなかろうか。ただこれも、対象地や観点が作者の関心に託されているので、特定の地域や関係する人物に限られる傾向にあり、また、当該地の記述を見つけ出すのには相当な困難が伴うであろう。
5. 北海道開拓文学等による補完の試み
そこで試みに、地名の起源・由来等の理解を深めるために、辞典類を補完する次善の策として、文学作品等に着目してみたい。この場合の検討も、具体的な作品を例示することによって可能性を探ってみよう。
(1)北竜町「和」の補完作品
北竜町の「和」の由来を補完する文学作品例として、長編開拓小説『いたどりの道』⑹(←CLICK!|書籍画像)を取り上げる。著者の没後に遺稿が発見され、死の6年後に関係者の努力で世に出たという異例の出版経緯をもつ逸作である。(かつて「開拓」の題で本名で雑誌に連載された形跡があるが、詳細は不明である。[2023年1月特記注]その後の調査で、1945年11月31日発行の月刊誌『健民』11巻10号から加藤松一郎が「開拓」と題した作品を連載したことが判明した。照合の結果、これを下敷きに改稿したと判断できる)
詳細に述べられているので、かなりの部分を省略して挙げる。(以下、原文のまま。改行部分は追い込み処理。66~67頁)
「この土地にはエタイベツというアイヌ名がついているが、これには皆んながいつも異議をもっていたので、今、われわれにふさわしい地名をつけたいと思う。僭越であるが団長として、名付け親の任務を果します。早くから想を練っていたわけで、皆んなが懐しい故郷の村名やわらとつけたいと思います。即ち雨竜村字やわらとなるのですが、故郷の埜原という字でなく、和と書くことにしたいのです。何故この和をあてるかというと、聖徳太子の憲法17条の第1条に『一に曰く、和を以って貴しとなし、(中略)』とあります。われわれが新らしい天地を開拓し村を建設するには、先ず何よりもこの和の精神が第一と考えられます。(中略)わしは、まことによい字名と思い、この和の字を当てました。尚二宮尊徳先生は、人道は和を以って本質であると述べられている。『(中略)何を人道というか、相生じ相養い、相救い、相助ける、是である』と教えられ、君民、貧富自ら和することによって聖世の治とせられている。もっと和について解釈をすればたくさんあるだろうが、わしの考えたことは、以上に基づいています。この地を、明日から和とよぶことにします」(中略)松之助兄弟らも、よい地名であり、簡単な文字がしっくりするというのだった。和の精神が開拓の基本になるのだ、どこまでも相救い、相助け合わねば村は造れない。と軽い興奮を感ずるのであった。由平は、さっそくおふくろへの手紙に、字和と書くといった。」(補足=文中の「団長・わし」とは「吉植庄一郎」、「松之助兄弟」とは 「加藤松之助」《作者・愛夫の父》と、その弟・加藤由平《作者の叔父》である)
地名の起源・由来を、これほど詳細かつ明快に盛り込んだ作品は珍しいのではなかろうか。文学作品等に、このような記述を一言盛り込む配慮がなされると、地名に対する読者の理解は容易に深まる。この作品は、開拓者精神として「和」の精神が地名に入れられたことを示す例と言えよう。
(2)今金町「神丘」の補完作品
今金町の「神丘」の由来を補完する文学作品例として、長編歴史小説『花埋(うず)み』⑺を取り上げる。「神丘」について、説得力のある経過が書き込まれている。(以下、原文のまま。飛び飛び引用。333~352頁)
「戸数が50戸を越えてみると中焼野という地名はいかにも当座しのぎで殺伐としていた。そこで志方らは天沼ら聖公会の人達と相談し、この地を新約聖書中の『神偕(かみとも)に在す』の意味から『イムマヌエル』と呼ぶことに決めた。(中略)日曜日はこれらの作業をやめ、午前10時に東の丘に集まり、午後は各自、家の補修や、休息に当てる。(中略)この頃瀬棚郡役場から『イムマヌエル』という仮名書き名は好ましからず、という申し出があった。当時、北海道開拓使は、道内のほとんどを占めていたアイヌ語の仮名呼びを、漢字に書きかえる方針に切りかえていたが、その波に 『イムマヌエル』なる地名もひっかかったのである。(中略)『耶蘇名なら一層許せぬ、ただちに日本漢字名にするか、さもなくば変更せよ』(中略)猛る志方を吟子は静かにたしなめた。言われてみるとたしかにそれは1つの案であった。かくして『イムマヌエル』の語源、『神偕(かみとも)に在す』からこの地を『神ヶ丘』と呼ぶことに同志の意見は一致した。役人はそれで納得し以後公的にはこの地一帯を神ヶ丘と呼ぶことになる。だが志方等が執着したとおり『イムマヌエル』の呼名は現在もなおこの地の人達に懐かしく呼び伝えられている。」(補足=「イムマヌエル」とある語は、明治42年発行の『符標新約聖書』から最新の『新共同訳聖書』まで「インマヌエル」の表記。最新訳の意味は「神は我々と共におられる(マタイによる福音書、1章23節)」。「この頃」とは「明治27年頃」。「志方」とは「志方之善」、「吟子」とは「女医・荻野吟子」のこと。地名表記の「神丘」が、最初は「神ヶ丘」だったかどうかは未精査)
主題は女医・荻野吟子の生涯を描いた伝記的作品であるが、地名「神丘(神ヶ丘)」の誕生経過も明快に書き示している。そして、開拓者精神の一面―信(信仰・信念)―が託された地名として銘記される必要があると思う。引用以外の箇所からも、キリスト教徒が新天地を求めて入植し、理想郷づくりの夢に向けて尽力を続けた当時の苦労が偲ばれる。命名の経過等が特定の小説等の作品の中で記述されたことによって、埋没を免れ、また、地元の郷土史等以上に理解しやすい説明となっている例ではなかろうか。
(3)岩見沢市「志文」の補完作品
岩見沢市「志文」の由来を補完する文学作品例として、3つの随筆等の作品を取り上げる。先に挙げた事典類の各執筆者が、これらの存在を知っていれば、もっと明快で説得力のある解説となったであろう。3作品から一部抜粋で紹介する。(原文のまま)
作品1⑻「私がここに入植したものの、これといってきまった地名がついていなかった。自分の手紙には、岩見沢村幌向川端としておいたところ、返事が幌向駅の方へいったり、訪ねてくる人がまごついたり、迷惑をかけることがたびたびあった。それで戸長に地名をつけてくれとかけあったが、あんたがつけたらいい、アイヌの呼び名があればなるべく尊重するように、とのことであった。アイヌといえば、かれらは近くの小川を修分別川とよんでいるらしい。修分別ではいいにくいので、別を取り去って修分、それを書やすく、字義もとおるように考えて『志文』としてはどうかということで、戸長の賛成をえて、そうきまった。道庁の方もこの地名を採用してくれたのは、うれしかった。(53~54頁)」(補足=文中の「私・自分・あんた」とは、辻村もと子の父・辻村直四郎。手記の紹介から一部分引用)
作品2⑼「この村の志文ともうすのも夫が名づけ親とのこと、あなたは土に志しなすつたのに―とももうしましたら、いや俺達の子供に、ひとりぐらゐは文に志すものができるかもしれないと笑ひました。でもあのひとも和歌を作りますのでございますのよ。」(補足=文中の「夫・あなた・俺・あのひと」とは、辻村もと子の父・辻村直四郎。結婚後間もない時の母・ちよが実家の母親に送った手紙の形で、もと子が綴った随筆)
作品3⑽「岩見沢から室蘭線に乗りかえた次の駅の志文と言う小さな村で私は生まれた。『志文』は昔父が開墾に入ったころ『シュブンベツ』とアイヌ語で呼ばれた川に沿った土地で、それからとって志文と名づけたのだそうだ。(中略)私は、いつかその未開地に入った開拓者の伝記の様なものを書いてみたいと、ながいこと心がけている。北海道の地名のおおかたはアイヌ語から来たものが多く、それがまた、私なぞには、みな、なつかしいひびきを持っているように思われる。」(補足=文中の「私」は辻村もと子自身。「俺・父」はもと子の父・辻村直四郎。随筆)
これらの文学作品の記述資料で、地名「志文」の命名の経過と意義が解き明かされたと思われる。そして、開拓者精神の一面―志 (こころざし)―が託された地名として銘記される必要があると思う。少なくとも「志文」の命名は、後年、娘・もと子の名作を生む道標になったであろう。もと子の生涯が42歳の若さだっただけに、『馬追原野』の続編として構想されていたであろう志文原野開拓の様子を伝える作品が日の目を見なかったのは残念である。地名に限って言えば、命名の経過等が特定雑誌等の寄稿として発表されたために、広く人々に知られる機会がなく、埋もれてしまっていた例ではなかろうか。(主参考文献=加藤愛夫『辻村もと子―人と文学―』いわみざわ文学叢書刊行会、1979)
(4)八雲町「常丹」の補完作品
八雲町の「常丹」の由来を補完する文学作品例として、長編歴史小説『冬の派閥』⑾を取り上げる。幕末尾張藩の勤王・佐幕の対立を主題にした作品自体は、一般によく知られているものである。
現八雲町での墓地選定の該当部分も、詳細に述べられているので、かなりの部分を省略して挙げる。(以下、原文のまま。改行部分は追い込み処理。248~250頁)
「『開拓の第一歩は、墓地づくりである』吉田知行がそういいきったとき、男たちは顔を見合わせた。(中略)吉田は、その気配を察していった。『われらは、ここを墳墓の地とする金鉄の志を立てて、やってきた。墳墓の地というのは、言葉のあやではない。われら一同、そろって本当にここに骨を埋めるのだ。そのためにも、まず墓地を定めておかなければならない』迷いを許さぬ、といった強い口調であった。(中略)ユーラップをとり巻く丘の尾根を伝い歩いたあと、吉田はトコタンと呼ばれる南の丘に墓地を定めた。見下ろすと、半月の形をした海岸線沿いに、原野と原生林が続き、その一劃に、点々と仮小屋の屋根が見えた。そこが広い耕地となったとき、いちばん眺めやすい丘でもある。一方、トコタンの南には、低い丘陵が続き、果ては雲にかすんでいた。そこからまっすぐに南へ南へとたどって行けば、いつか名古屋へ至るはずである。そう思うと、そこは、名古屋からの風が吹いてくる場所ともいえた。吉田は、男たちに、そうした話をした。男たちは、神妙に聞いていた。『知多半島の常滑(とこなべ)の常をとって、常丹(とこたん)という字を当てよう』吉田の言葉に、おとなしくうなずく。ここで、永遠の眠りにつくのか。」(補足=文中の「吉田知行」は旧尾張藩金鉄組の家扶・北海道事業担当責任者。「ユーラップ」は「遊楽部川」、「常滑(とこなべ)」(ルビは原文のまま)は「常滑(とこなめ)市(愛知県の知多半島西岸の中央部)」のこと)
「常丹」の地名は、命名されて約140年、消滅して60年になる。しかし、この作品で明快に示されているように、文学作品等の中では永遠に残り続ける。八雲を題材にした多数の小説や随筆などを書いた作家・飯田知也の作品にも小説『トコタンの丘』(今日の問題社、1940)があり、その文学碑も小高い丘にある。
尾張徳川家の移民たちは、この地を「墳墓の地」とする覚悟で、移住の際に愛知県に対し、「貫族換移住願」を提出している。「貫」とは戸籍のことで、「貫族換」とは本籍を移しかえるということ。この意味で、移住の決心―いつまでも変わらない―が込められた地名とも言えるのではなかろうか。
現在の墓地は、度々の川の氾濫から逃れて高台に移転されているが、吉田知行ら移住者たちが多数埋葬されており、墓碑はすべて同一方向を向いている。これは、最初の死亡者が生前一度尾張の地を見たいと言っていたのにちなんで、お墓の正面を尾張の方角へ向けることになったのだとされる。
6. 文学作品の役割の再認識
以上の作業過程から、開拓文学作品等を掘り起こして整理してみると、作品等が、一見関係がなさそうな地名の起源・由来の理解・伝承の面においても、典拠となり得る点においても、極めて有効な手段になることが示唆された。文学作品の果たす役割として、この面でも、もっと必要性・重要性が強調されてもよいのではなかろうか。
また、作業の過程で実感させられたことは、雑誌の随筆や児童文学の分野にまで広げると、埋蔵されたままの史料性の高い秀作が多いことも予見された。今後の地名辞典・事典の充実において、この分野での発掘・活用は欠かせない作業になると思われる。
7. おわりに―課題と期待―
われわれの身近な社会に限ってみても、社会的集団生活は刻々と変化・複雑化しており、様々な事情・変遷の中で、変更・追加・消滅を余儀なくされるものの一つに地名がある。その流れは、一面避けがたいもので、歴史的には必然と言えるものでもあるが、できることなら変えないで、同じ地名を持ち続けたいという心情は、基本的にはそこに住み続ける人々には強くあると思われる。
この観点から、今後の課題と期待を整理して結びとしたい。
現状に問題があると指摘した辞典類の内容充実に向かう課題は多い。有効な史料・資料は様々な形で分散して存在しており、容易に把握することが困難な状況にあっては、収集・分類・整理等の取り組みはもっと学際的におこなわれる必要がある。
文芸分野に限ってみると、次のような点が指摘・期待されるのではないかと思われる。
① 地名に限定した辞典・事典類であっても、起源・由来については、不十分な内容の記述となっている場合が少なくないことが示唆されたので、アイヌ語から漢字化への過程や選択された文字に込められた意味などを再調査し、地名個々の解説の見直し・充実への取り組みをおこなう必要があること。
② 補充・修正のために、開拓文学の既存作品からの史料発掘が期待できることから、地名を念頭に置いて過去の雑誌等の作品の精査を更におこなってみる必要があること。個々の地名について、解説の最後に「参考・参照」などとして、探し得た作品等の一つを挙げる配慮が加わるだけでも、地名辞典類の価値・魅力は一層高まるであろう⑿。
③ 地域性を伝承していく観点から、北海道開拓者精神、それも移住者にみる魂の視点からとらえていく歴史小説的な文学作品等の著作を作家に期待したいこと。それには、各地の開拓移住者の生活を掘り起こし考察する取り組みが更に必要であろう。
④ 北海道舞台の作品や北海道在住・出身者の作品を集めた目録・全集が存在すると同様に、北海道開拓の特殊性を重視し、これまでの作品の価値を再認識する観点から、北海道開拓文学作品の目録・全集等の編集・発行も更に期待したいこと。また、かつて存在した地名も網羅した記憶遺産的な「北海道文学地名辞典」などは待望の書である。
⑤ こうした史料・資料の見直し後に、将来を担う子供たちのために、地域ごとに充実した副教材的な郷土史物語が書き残されること。児童文学作品に関しても、北海道開拓文学作品と同様な主旨の編集をおこない、北海道全体の地名を網羅するような詳細な目録・全集等が発行されるよう期待したい。
引用文献注
⑴ 山田秀三『北海道の地名』北海道新聞社、1984
⑵ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典一北海道(上・下巻、全二冊)』角川書店、
1987(注=1993年発行全3冊の同名書も同一内容の再版)
⑶ 角川書店『角川日本地名大辞典 月報』36号、1987
⑷ 本多貢『北海道地名分類字典』北海道新聞社、1999
⑸ 平凡社地方資料センター編『北海道の地名―日本歴史地名大系一』平凡社、2003
⑹ 加藤愛夫『いたどりの道―北竜町のルーツ―』加藤愛夫遺稿刊行委員会、1985
⑺ 渡辺淳一『花埋(うず)み』河出書房新社、1970
⑻ 若林功著・加納一郎改定『北海道開拓秘録(2)』時事新書、時事通信社、1964
⑼ 辻村もと子「早春箋」『戦時女性』6、1944
⑽ 辻村もと子「ポプラのある窓」『北海道倶楽部』1巻4号、1934
⑾ 城山三郎『冬の派閥』新潮社、1982
補足注
⑿ 地名辞典での仮想項目例(文学作品等を付記する場合の解説例)
常丹(とこたん)……1878(明治11)年~1956(昭和31)年に、現八雲町に存在した地域名。現字名「熱田(あつた)」。1878年、尾張徳川家から開拓者として入植した移住団の責任者・吉田知行が、アイヌ語名のトコタン(廃村の意)を漢字名にする際に、出身地の愛知県知多半島常滑の「常」の1字を入れて「常丹」とした。最初、墓地の所在地名であったが、次第に広域化し地域名となった。(参照:小説『冬の派閥』城山三郎)
(2016年5月20日初作稿。個人架空作品集『無意根山を望む窓』収録)
01-5.(児童文学)ひまわりダンゴは太陽の味
(本稿は2016年5月1日現在で書かれた作品で、文芸誌の「児童文学部門」に応募し落選したものであるが、未改稿のまま収録した)
お母さんは、昔をなつかしむかのように目を細めてつぶやきました。和人君は、パチンと1つ手を打って、ニッコリ笑いました。
「ソレー、イタダキー!」
「『それー、いただきー』って?」
「夏休みの宿題だよ。自由研究に『ひまわりダンゴは、なぜ太陽の味がするか』ってのを調べて、作文も書くんだ。みんなビックリするだろうなー。お母さん、ひまわりダンゴを作れるよね!」
「まあね」
そして和人君は、もう「ひまわりダンゴ」を食べて、味の研究している自分を思い浮かべていました。太陽もニッコリしました。
この話の始まりは、小学5年生の和人君の学校が夏休みに入ったばかりの晴れた暑い日の午後でした。お母さんも夜勤明けで家にいました。
和人君の家は、近くの病院で看護師をしているお母さんとの2人暮らしで、計画的に都市づくりが進められた地域の団地に住んでいます。近年、駅に近い所から建て替えが始まり、高層住宅になっています。
和人君一家の住む場所はまだ古い2階建ての集合住宅のままです。一家はその1階にズーッと住み続けてきました。それぞれ棟の南側は日当たりをよくするために空間がとられ、玄関につながる小路と小さな畑になっています。1階の入居者は、その畑に花や野菜を植えて楽しむことができるのです。
和人君のお母さんは、その畑を「わが家の庭」と呼んで、毎年、ヒマワリを育てて楽しんでいました。このヒマワリ育ての趣味が最大の理由で、高層住宅への転居を希望しなかったのです。和人君の学校もお母さんの勤め先も近いので、お気に入りの住まいです。
お母さんのヒマワリ育てには、少し変わった工夫があり、近所ではちょっとした評判になります。このちょっぴり自慢の花畑を2人で眺めるのが、親子の楽しい憩いのひとときになっていたのです。
玄関を出た所で、和人君とお母さんは一緒に並んで、ジーっと庭のヒマワリを見詰めていました。毎年のように、大きな花の咲く品種から選んで植えています。〇〇ジャイアント、〇〇マンモスなどと、名前からして巨大さを思わせる種類です。
また、咲き方に差がつくように、2度に時期をずらせて植えています。もう大きく伸びた、西側の早植えのヒマワリが目に入ります。大きな黄色い花は全部こちら(東側)のほうを向いています。もう大人の花になった証拠に、中心の丸い部分は、大部分が濃い茶褐色になりつつあります。
ところが、その手前の小路側に時期をずらせて遅く植えられ、いま茎の先端につぼみを付けたばかりの育ち盛りのまだ背の低いヒマワリは、全部そろって太陽のほうに小さな花を向けています。「フン」と上に首を振り上げたように見えますので、お母さんは「子ども時代の反抗期」と名づけています。夕方になると、そろって後ろ(西側)向きになりますので、反抗の態度と思って見るとおかしくてふき出してしまいます。
近所の人は、通路や小路側から眺めて、同じ種類のヒマワリなのにと、この違いに驚いたり感心したりして笑うのです。
こんな変わった植え方をして、花を眺め楽しむことにはわけがありました。
それは札幌から車で2時間ほどかかる所にある町なのですが、お母さんの通っていた学校のすぐそばに、『ひまわりの里』という観光向けの巨大なヒマワリ畑があったのです。鑑賞期間を長くする工夫として、2、3回に分け、時期をずらせて植えられていました。そのころは、どの家でも必ず数十本を育てていました。ヒマワリはなつかしい故郷を思い出す花だったのです。
もう20年も前になりますが、お母さんが中学生の時、町の取り組みに生徒たちも協力することになり、初めて他の国のヒマワリも栽培し、変わった花をいくつも咲かせました。皆が珍しがりましたが、自分たちが一番驚いて喜んだのでした。
そしてその年、テレビの全国放送「きょうの料理」という番組で、この『ひまわりの里』のヒマワリを材料とした食品が「ひまわりダンゴは太陽の味」というタイトルで紹介されました。とても反響が大きかったのです。
それをふと思い出して、「ひまわりダンゴは太陽の味」とつぶやいた独り言に少し力がこもったので、和人君に聞こえてしまったのです。太陽は黄金の光で輝いていました。
(ソーッとお教えします。和人君の名前は、お父さん・お母さんの故郷の名なんですよ。「和」の「人」って読めるでしょ。故郷はいつも心に思い描ける大切な場所なんですね)
「まあね」と答えて、(まずいことを言ってしまったな)と思っても、もう後の祭りです。お母さんは、「ひまわりダンゴ」の作り方を覚えていませんでした。
正直に言うと、家庭科の時間に料理を作った時も、メモを読み上げたり、味見したりする役ばかりしていたうえに、自分ひとりでは実際に作ったことがなかったのです。昔のことなので、味も忘れてしまいました。
そして、「絶対に作ってよ!」と念を押され、「そのうちに」と、またあいまいな答えを、お母さんはしてしまいました。
(もう忘れてくれたかな)と思っていたところ、3日ほど経って「お母さん、まーだ。絶対にだょ!」と催促されてしまいました。
お母さんは、やるしかないと覚悟して、ようやく行動に移すことになりました。
あの後もズーッと、早植えの(生長の止まった)花は東側の小路のほうだけを向いたままでしたし、遅植えの(生長中である)花は朝から晩まで太陽を追い続けていました。
そんな7月下旬のある日、和人君は、太陽とヒマワリの動きとの関係を意識するようになりました。「太陽の味」という魅力的な言葉がきっかけになったようです。
以前に授業で説明を受けたような気もしますが、覚えていません。実は和人君は、育ち盛りのヒマワリが、朝早くから夕日が沈むまでズーッと太陽の輝きにばかり花を向けている時期があるのを見て、小さい時からズーッと不思議に思っていました。3年生になって、理科の授業でヒマワリの生育の観察をしました。その時も、やっぱりズーッと不思議に思っていました。ヒマワリの小さな顔が太陽を見詰めているようにも見え、ふと(何を考えながらズーッと見詰めているのかな)とも思ったことがありました。
じっくり花を観察してみると、少しの違いがあるにしても、太陽を追う目立った性質があるのは間違いないと思うのです。「どうしてそうなるのか」と、この不思議な性質について、知りたい気持ちが高まりました。
疑問を友達に話してみると、友達も和人君と同じように不思議に思うのですが、理由はわからないようです。学童保育所の仲間やボランティアの先生に聞いてみても、お母さんに聞いても、やはり同じでした。
「ヒマワリの習性でしょ」と言われて、わかったようで、わかった気がしません。
「しつこいね」と叱られる気がして、和人君はこれ以上聞くのをやめることにしました。
本当は、もっと質問をしたいのでした。いろいろとまだ疑問があったのです。
「特に、生長中の若い花について、夜はどうなっているのか。花の首をどちらに回して戻り、朝日を待つのか。高い建物があって日陰になったら、軒下だったらどうなるのか。いつ、どうして、首振りをやめて東を向いたままになるのか。1本の茎にいくつもの花をつける品種も同じか」などとね。
ていねいに教えてくれる人がいたら、さらに聞いてみたいこともありました。「花には、茎・葉・花・実・根・種などと区別がある。ヒマワリは、どこが花でどこが実でどこが種なのか。どれが雄しべでどれが雌しべか。そして、どんな種類があるのか」などとね。
「知ったような口を利くな」と叱られる気がするので聞かないことにしている疑問もあります。(東北の原発事故の時、放射能汚染の土地に植えたら汚染を除去できるという話、あれどうなったの)と思ったのでした。
聞くのをやめたからと言って、疑問を解くのをあきらめたのではありません。区役所の隣にある図書館で調べればわかることに気づいて、もう行くことに決めていたからです。図書館は歩いて行ける所にあります。
お母さんは、職場の休憩時間、スマホで調べごとをしたり、廊下の窓際に立って太陽を見上げたりする日が増えました。不安が生じていました。「ひまわりダンゴ」の手がかりがつかめていないのです。
最初は、スーパーかデパートのお菓子売り場に行けば、そこで買えると思っていました。作らなくても、買うことができればそれで済ませようと思ったのです。ところが、どこでも売っていなかったのです。
ネット検索では、あれこれやっても、それらしい情報はまったく得られません。販売されていないと判断しました。思い起こして、「ひまわりダンゴ」の作り方や日持ちなどを考えると、家庭で作る珍しいおやつの1つにはなっても、商品化して販売するお菓子にはなり得なかったと気づきました。
そして、代わりになるものが何かないかと、お母さんは考えました。しかし、お母さんはよい知恵が浮かばず、焦りの気持ちに変わってきました。
和人君は図書館に通い始めました。どんな本を参考にしたらよいのか、係の人からアドバイスを受けながら調べていきました。図鑑や事典などを読み、大切な説明はメモしながら進めました。
ヒマワリは、日本では、漢字名で「向日葵、日回り、日輪草、日車」などと書き表されます。世界の国々でも、「太陽を追って回る花」「太陽のように丸く大きく黄色い花」「太陽そのもの」「太陽のように回る花」と表現されています。みんな太陽に関係したり、太陽に由来したりするものです。
生長期に限られますが、「日中、花を常に太陽の方向に向けている、太陽の光を浴びながら育つ」という性質が、世界の人々にいかに注目されたかがわかります。
そして、成熟期には「太陽のように丸く、大きく、黄金色の花になる」という形・色も注目の度合いをさらに強めます。同じ方向を向き、たくさんの花が咲いている写真は、見る人にすごく感動を与えます。
ヒマワリについて、疑問に思っていたことが少しずつわかってきました。全然知らなかったこと、疑問にも思っていなかったことも知ることができ、調べることが面白くなりました。ずいぶん物知りになったような気もしてきました。
まだ十分にわかっていないこと、研究したり調査したりする必要のあることなども、いろいろたくさんあることがわかりました。
例えば、ヒマワリのつぼみが大きくなり、花が開くころには生長が止まり、これ以後の成熟期は東を向いたまま動かなくなりますが、その理由にはいくつかの説あり、まだ明確には解明されていないとのことでした。それぞれの説は説得力があり、全部が当てはまるような気もしますが、どれかをはっきりさせる研究が続けられているとのことです。
(すごいなー)と思ったのは、花の中側のやがて種になる茶褐色のところです。ぎっしり詰まって並んでいる実は、丸い部分にたくさんがひしめき合っているとしか見えませんが、中心から外側に向かって規則的な列があって、各列に並ぶ粒の数も決まっているそうです。どのヒマワリを見ても、大きなきれいな円の形になっているのはその規則性の美しさにあったのです。
夏休みの自由研究は、「ヒマワリの育ち方と性質」にして、家の庭の観察結果や調べてわかったことを絵にして整理してみることに変えました。「ダンゴの味」よりも科学的なような感じがして、研究した気持ちが込められるような気がするからです。
作文も、この経過をまとめることにしたいと思うようになりました。材料が多すぎて、まとめるのにうれしい悲鳴をあげることになりそうです。
お母さんのほうも、覚悟を決めて、「ひまわりダンゴ」作りに自分で挑戦してみようという気持ちになっていました。
またスマホで検索を始めました。材料と調理法を知るためです。あの「きょうの料理」の放送番組は今も続いています。しかし、残念ながらレシピの一覧には、あまりにも前過ぎて、あの番組のものは載せられていませんでした。載せられている中にも、「ひまわりダンゴ」やヒマワリの種を材料にしたものは、レシピ一覧にはありませんでした。
いろいろと検索を試みて、やっと参考になるものを1つ探し当てました。その名も「ひまわりだんご」で、「ひまわりグルメ選手権エントリー作品」の1つでした。5年ほど前に神奈川県座間市で開催された「ひまわりフェスタ」の催し。作品の説明には、「……甘いあんこをひまわりの種で包んで揚げることにより、ナッツのような食感と香ばしさを味わいながらあんこの甘味を堪能することができます。……」とありました。
昔、故郷で作られていたものとは違うような気がしますが、参考になり、なんとかできそうな調理法をイメージできました。
ことは少し前進するような気がして、お母さんの気持ちはだいぶ楽になりました。
この直後、仕事仲間の1人が、ヒマワリの種にコーヒーの衣を巻いた、オレイン酸がたっぷりというお菓子をコンビニで見つけて買ってきてくれました。しかし、お母さんの気持ちはもう揺らぎません。ダンゴ作りが親子のきずなを深めるチャンスだと思うようになっていたからです。
その日、お昼を食べに図書館から帰ってきた和人君を、ヒマワリの群れは、やっぱり同じ姿勢で迎えました。和人君は(まだ続いているな)とつい笑ってしまいました。
玄関の前まで来て、そろって自分を見詰めている成熟期の、もう周りの花弁がしおれている花を見て、突然和人君は、(すごいことに気がついた)と自分で思いました。お母さんがつぶやいた「ひまわりダンゴは太陽の味」というのは、(太陽の光をいっぱいあびたヒマワリの実のこと)と思いついたのです。1つの花に近づいて、ヒマワリの実をジーッと見詰めました。
(やっぱりすごいよ)と改めて思いました。和人君なら、空の太陽を見たら、ピカーッと光が目に入って、すぐにまぶしくて何も見えなくなりますが、ヒマワリの花はズーッと長い間、毎日のように何時間も見詰め続けてきたのですから。実の1つ1つに、太陽の輝きがいっぱい詰まって、やがて見事な種に変わる、そんな気がしてなりません。
そして、お昼のお弁当を1人で食べながら思ったのでした。(「ひまわりダンゴ」は「ひまわりようかん」などと同じで、主な材料に少しだけヒマワリの種の粉が加えられているだけなのでは? ヒマワリの粒や粉だけではだんごにはできないのでは?)とね。
ヒマワリの実が茶褐色を強めて教えてくれたのは、(太陽の光を味見したいのなら私たちを直接食べてみるのが手っ取り早いのでは?)ということでもありました。
和人君は図書館に向かって走りました。そして、事典を読み直しました。ヒマワリの原産地は北アメリカ西部で、2千年前には、原住民のインディアンの食用作物として重要な位置を占めていた、と書かれていました。その時の加工は、十分に種を乾燥させ(皮は硬くて食べられないので)殻をはがして、中の実を取り出し、粒状のものをそのまま食べていたようです。そして後に、炒ったり、ゆでたりしてから塩で味付けをして、食べるようになった、と伝えられています。
中味をそのままあるいは粉状にしてから、他の物とまぜ合わせて味付けをして食べる加工は、もっと後になってからとり入れられるようになったと言われています。
次の挑戦は、ヒマワリの種を乾燥し、種の中味を取り出して食べてみること。(これは夏休みが終わってからだな)と思いました。
幸いなことに、今年家の庭に植えられたヒマワリは食用の種類でした。ヒマワリの種は、あまり味にくせがないので食べやすく、アーモンドに似た味で、おいしいそうです。
乾燥させたヒマワリの種をそのまま食べることは、日本ではありませんが、アメリカではスポーツ選手が補助食品として試合中にほおばったり、中国などではおやつ代わりに食べたりするということです。
和人君の家の庭で、太陽の光の恵みを受けたヒマワリの実(種の中味)は、実際にどんな味がするのでしょうか。これを味わう楽しみは、もう少し先のことになります。
(この提案を聞いたら、お母さんは何と言うだろうか)と思うと、ワクワクします。和人君はお母さんの帰りが待ち遠しいのでした。
その日、お母さんは、いよいよ「ひまわりダンゴ」を作る手順を調べ、材料を買い求める決心をしました。やはりスマホのネット検索で探しました。
こんどは、普通のだんごの材料と作り方を調べてみることから始めました。ありました。商品化されている食材一覧やレシピがいくつも紹介されていました。
簡単に作れるようにと、混ぜ合わせられた食材があり、「だんご粉」もありました。うるち米・もち米を精白し、水に漬けて粉砕し、乾燥して作られるものです。これを主材料に使ってみることにしました。
ついでに「ひまわり粉」を検索してみると、商品化されている粉は見つかりませんでしたが、参考になる情報がありました。浅岡賢司という人の研究による「ひまわり粉粒含有食品」の製法が公開されていました。
乾燥したヒマワリの種の殻を取り除き、粉砕した粉粒を用いるものです。「加熱処理を施したものを用いれば、より一層風味が増した食品が得られる」とあり、コツはあらめの粉粒にとどめることなどでした。
幸いなことに、今年わが家の庭に植えたヒマワリは食用の種類です。最も重要なのは種子の収穫と乾燥の方法。この作業は、毎年のことで慣れていますから、だいじょうぶ。
その日の夜、和人君の考えとお母さんの考えとが述べられ、盛り上がりました。お互いに、似たような考えになっていたことに驚きました。2人の話し合いは、熱が入り、次々と発展し、食事の後もさらに続きました。
その時の親子の話し合いの様子は、ヒマワリの花言葉のような雰囲気でした。それは、大人っぽい言葉なのですが、花の動きに由来する「あこがれ、情熱、あなただけを見詰める」などというものです。2人の目がキラキラと輝いていたのです。
和人君にとっても、お母さんにとっても、忘れられない夏になりそうです。
(2016年5月20日初作稿。個人架空作品集『無意根山を望む窓』収録)
01-6.(童話)北竜メロン『龍の鈴 誕生物語』
みなさん、『龍の鈴』というメロンをご存知ですか。日持ちがよく、甘さが抜群な、とっても高級なメロンです。北海道の生産地・北竜という町(私の故郷)の特産品です。その誕生物語をお話しします。
「カラン、コロン」
鈴の音が神社の境内にひびきました。
みなさん知っていますよね。神社の拝殿正面に、布で編んだなわと一緒につり下がっていて、お参りする時、なわを振り動かすと鳴る、あの大きな鈴のこと。
みなさんの近所にある神社の鈴は「ガラ、ガラ」とか、「ジャラ、ジャラ」と鳴ると思いますが、この神社の鈴は「カラン、コロン」と鳴るのです。
もともと、鈴の音は清らかな澄んだもので、心や体を清めて災いを除く力があると人々に信じられてきました。
この町にある真龍神社の鈴は、『龍の鈴』と呼ばれています。スーッと心にしみ込むような清らかな特別な音をひびかせ、地域の人々に長い間、親しまれてきました。
それは五十数年も前の秋でした。いつものように小学生たちが、神社の境内でかくれんぼをして遊んでいました。鬼役の山田秀樹が、
「はかせ、見つけたぞ!」
と叫ぶと、物知りでみんなに「はかせ」と呼ばれている野田弘が気まずそうに出てきました。秀樹は捕まえたことを知らせるため神社の鈴を鳴らしました。
すると、いつもはだれが振っても「カラン、コロン」と鳴っていたのですが、
「タラン、メロン」
と鳴ったのです。自分の耳を疑い、もう一度振ってみんなに聞いてもらっても、やはり
「タラン、メロン」
と鳴ったのです。みんなは、不思議に思い、かくれんぼをやめて、考え込みました。
すると、弘が思いついた名案を述べました。
「タランは足りない。メロンは果物のメロンんじゃない? メロンが不足しているっていう意味。どう?」
「それは、どういうことだろう?」
「秀樹に鳴ったのだから、何か心当たりはないかい?」
するとすぐに秀樹が、ニャっと笑って小さく首を縦に二回振りました。
「ある、ある。大ありだ。これは神様からのお告げだよ。わが父に進言だ!」
拝殿と『龍の鈴』に手を合わせ、「これは我が家の将来に関することだけどね」と言い、少し得意げに、秀樹は、昨夜のお父さんとお母さんの話し合いの様子をみんなに説明して聞かせました。
秀樹の父・山田秀雄さんは、「これからの農業は稲作だけでは成り立たなくなり、畑作も加えた農業へ変わらなければならない。そして、重要なのは畑で何を栽培するか。メロンが最有力だ」と、力説したそうです。
そして、秀樹は自分の将来を思いながら、お父さんから聞かされた言葉「生活の潤い」をつぶやいて、空を見上げました。みんなは感心して聞いていました。
「メロンはすごくおいしいよな!」
と言って、弘も大きくうなずきました。
秀樹が走り出しました。走りに走りました。お父さんの働く水田へ。
そして、「とにかく来て!」とお父さんを連れて、神社に戻ってきました。
市街地の外れにある神社には、毎日のように仕事の行き・帰りに人々が立ち寄り、『龍の鈴』を鳴らしました。そして、その音によって人々は心の疲れを癒されてきました。
二人が神社に到着すると、よそのおじさんが来ていて、鈴のなわを振っていました。
「カラン、コロン」
鈴はいつものように鳴っていました。
「お父さん、ぼくが振るから、聞いてよ」
と秀樹が先に鳴らしました。
「タラン、メロン」
確かに違いました。不思議に思ったお父さんは、自分で鈴のなわを振ってみました。
「タラン、メロン」
念のため、お父さんはまた鳴らしました。
「タラン、メロン」
「お父さん、いつもと違うのがわかる?」
「足らん、メロン。メロンが不足しているから、メロンを作れと、聞こえるね」
「そうでしょう。昨日の夜、メロン栽培の話を聞いていたから、すぐに知らせたの」
お父さんは、この音を真龍神社がまつる竜からの強い励ましと受けとめ、メロンの栽培を決心しました。
その後秀樹も、お父さんに協力し、青肉メロンなら最高級とほめられる優良品を造り、多くの人を喜ばせました。町史は、お父さんの名を「高級メロン創作者」と記して伝えています。
今、神社の鈴はどんな音を響かせているかって? 実は、誰が鳴らしても、低い音で
「イラン、コロナ」
としか鳴らないんですよ!
(2020年12月20日公募ガイド社発行、童話作品集『千思』収載)
(2023年1月、転載にあたっての追記:50数年前の史実をヒントに創作した童話ですが、山田秀雄さんは「高級メロン試作の成功者」として、野田弘君は後に「メロンになった男」と称賛されるほど活躍した栽培指導者として、その功績が『北竜町史 第2巻』に記載されています。元祖北竜メロン『龍の鈴』の発案者・山田秀樹君も、お父さんの後を継ぎ、おいしいメロンをつくり続けました。なお、2022年12月、この作品はメロンPR用として故郷へ提供しました。当部屋訪問者の便宜のために、ここに転載しました)