あひる&ゆきなリレーエッセイ集


 

ミヤマキリシマ 花だより (その12)

 

 

「電話だけでつながっていたころ」(by あひる)

 

もう十二年ほど前のことになる。当時わが家は家族四人バラバラの生活を携帯電話でつないでいた。主人は沖縄へ単身赴任。幸奈は山口県の大学、広輝は福岡県の専門学校、私は鹿児島県の自宅マンションで一人暮らしをしていた。

保育士を目指し鹿児島県内の大学に進学するはずだった幸奈が、苦手な面接試験のとき「あなたは吹奏楽部でウィーン遠征をしたそうですが、そのことが今後保育士として何か役に立ちますか」と質問され何も答えられなかった。

結局、幸奈は不合格になってしまった。ほかの学校はすでに試験が終わっていたが、山口県の宇部にある大学の推薦試験の受験を、担任であり吹奏楽部の顧問だった先生から勧められた。

保育士になるためならそこを受験するというので、私が付き添い受験させた。幸いその大学ではウィーン遠征を高く評価していただき合格した。

築百年の木造二階建の寮には、親は玄関までしか入れなかった。三歳年下の広輝の高校の入学式と幸奈の入学式が同じ日だったので、幸奈に私が、広輝には主人が付き添った。そして三年後、広輝が福岡のミュージック専門学校に入学して四人バラバラの生活が始まったのだ。

幸奈は大学四年生になっていた。

保育士の就職は地元の学校が有利で、鹿児島県内の保育園に務めたいと希望する幸奈にはとても不利な状態だった。

不安な気持ちからか、毎日何度も携帯電話から連絡があった。その日も朝早く着信があったのだが、ベランダで洗濯物を干していた私はそれに気がつかなかった。電話をかけると出ない。多分講義に出ているのだろうと思い、昼頃かけてみるとカチャリとつながるものの靴音だけ聞こえ何も言わない。

大きな声で名前を呼んでも何も言わない。一度電話を切りかけ直すと、またカチャリと電話をとる音と道路を走る車の音が聞こえる、名前を呼んでもまた答えない。

心配になった私は大学の寮に固定電話を使って電話をかけた。寮母さんにたずねると「朝寮を出て、まだ帰っていない」とのこと。ますます不安がつのり、今から行きますと言うと呆れた声で、もうしばらく待ちなさいと言われた。

まさか誘拐? ろくな事は考えない。こんな経済状態の家に身代金など出せるはずもない。いやまさか就職難を苦にして早まったか? 

鹿児島から宇部までは高速バスを乗り継いで七時間、新幹線だと在来線まで合わせると四回乗り継がなければならない。旅費もバカにならない! もう待つのも限界だと思った午後二時、幸奈からの電話が鳴った。

携帯電話のイヤホンをつけたままバックに入れたからー着信気が付かなかったのごめんね~ お母さん、と、とても明るい声でランチの、美味しいお店見つけたなどと話す幸奈。もう二度と心配しないと決意したものの、未だにこの手の騒動が続いている。

 

 

 


 

  


 

「穏やかな生活」(by ゆきな)

 

 私たち親子三人が実家で暮らすようになったのは四年前のことだ。ひよこは四歳、まめはまだ一歳になる前だった。

夫と別れて家を出るとき、最低限の荷物だけを持ち、これからの生活はどうなるのだろうと不安な気持ちいっぱいだったことは、今でも鮮明に覚えている。

私たちが帰ってきた頃、実家はまだ新築だった。父と母とは、父方の九十七歳の祖母の家のすぐ近くに家を建て二人でのんびりと暮らすはずだった。ところが私の離婚騒動で予定は大きく変わってしまった。

あの頃は自分たち親子のことで精一杯だったが、両親も大変な思いをしたことだろう。こんな、賑やかな生活になるなんて、四年前は誰も想像していなかった。

あの時まだ、赤ちゃんだったまめは、今では、細々と口うるさい父に「うるさいじいちゃん」などと口答えをするようになった。

ここにきた頃は、まだ小さかった子どもたちが、最近は将来の夢を話すようになった。ひよこは、素敵な旦那さんと、赤いお家を建てて、私も一緒に住んでいいよ。と言ってくれる。

「ママと一緒に住むの旦那さんが嫌がったらどうする?」と、少しいじわるな質問をしたことがある。

「嫌いって言っても、言うこと聞かせる!」

と強気な返事が返ってきた。

「ママは今のお家があるからいいよ」

と返したが、本当は照れくさくて嬉しかった。

まめは将来ヒーローになって、おこりんぼママをやっつける!と言っている。

四年前に抱えていた不安な気持ちは、いつの間にかどこかへ消えていた。子どもたちの未来を明るく想像しながら毎日穏やかに過ごせている。

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