第2編 幸齢になってからの泡沫話

Vincent van Gogh (Dutch, 1853 – 1890), Farmhouse in Provence, 1888, oil on canvas

第2編 幸齢になってからの泡沫うたかた

――幸運にも齢を重ね、ふと思い浮かぶ、時折々の話を拾ってみました――

 

01. はちみつのど飴

 

   


札幌市の中心部、地下鉄「西11丁目駅」のすぐ近くに「札幌新生教会」というプロテスタント系のキリスト教会がある。そばを通ると、建物の壁下部に「からし種1粒ほどの信仰」とり込まれた文字が目に入る。

調べてみると、新約聖書の聖句で、「ルカによる福音書」17章6節にこの言葉があった。最も小さい物のたとえとしてあげられたようである。からし種1粒の大きさは0.5ミリ程度だそうだ。

聖書の別のところには「……畑にけば、……成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」とある。

13年前の2006年3月末、定年延長の満期を待たず68歳で退職した時、健康維持の1つとして、毎日、ウォーキングとしゃれて散歩をすることにした。散歩の間、のどをうるおすために「のど飴」をいくつか衣服のポケットに入れて出かけることにした。

その時に頭に浮かんだのが「からし種1粒ほどの信仰」の言葉だった。同時に「ひまわり蜂蜜のど飴」も浮かんだ。

この飴は、「ひまわりの里」として知られる北海道北竜町のひまわり蜂蜜を原料としている。蜂蜜の香りとコクがあり、ハッカの爽快そうかいな味覚もする。

北竜町は、まだ村の時代、高校入学で実家を離れるまでお世話になった郷里である。愛着が高じて、文芸作品の応募にも生まれ育った地域の字名・碧水を使う。プロフィールには、「北海道雨竜郡北竜村出身。開拓時代の地名と現代の地名とにちなんだペンネームを採用」を加える。(この作品は「渡辺碧水」の筆名を使っていた)

私が思い付いたのは、故郷の小さな町への「からし種1粒ほどの恩返し」だった。1日2、3粒でも日を重ねれば結構な分量になる。ことわざ「チリも積もれば山となる」を思い浮かべて、なかなか見つからなかった販売店を探し出し、購入先を確保した。

善は急げと退職した次の日、人生の再出発日の2006年4月1日から始めた。

私には癖がある。まずはできそうな小さな目標を立て、知恵を絞り出しながら可能な限りの努力をする。それを達成したら、またそれをかてにして次の目標に挑戦する。達成できないときは、きっぱりあきらめる。

最初の目標は、「ひまわり蜂蜜のど飴」をポケットに、遠い昔の田舎ののどかな風景を思い浮かべながら、1年間毎日、必ず出かけて、家の周辺を小1時間、「ウォーキング」と称して歩き回ることだった。

歩き回って、副都心・新札幌と名づけられた由縁を知った。弾薬貯蔵の洞穴と農地からの再生で、あらゆる公的機関が集合し、いくつもの交通網の出発点が一か所に集結する街に生まれ変わっていた。

(2018年11月16日、ウエブ掲載欄『蜂蜜エッセイ』第3回募集掲載。加筆・改稿)

 

02. 老いて与えられる夢

 

紫陽花にほととぎす図 自画賛 与謝蕪村筆(Wikipediaより)

   


昨年(2016年)の暮れのことだった。「五・七・五。これでよし。忘れないうちにメモしなければ……」と思ったとたん、目が覚めた。
この少し前、川柳を長年作り続ける高校時代の知人から集大成の選集が贈られてきた。どうやら昼寝で夢を見たのは、これに刺激を受けて、自分も川柳を作ってみる気になったかららしい。

その後、句作が生活の一部に加わり、字数合わせだけだが、川柳を作り続けた。遊歩道での散歩は推敲すいこうのひとときとなる。半年ほどしてかなりの数になったので、何かに応募してみようと思い立ち、気に入った作の選句に入った。可能性はないなとは思いながらも、挑戦に意義ありと、夢を託して張り切った。

「老いを生きる」(十句まとめ)
夢の中悪童仲間そろい踏み
思い出の連鎖で回る走馬灯
古手帳お宝詰めた玉手箱
友語る昔話に笑みこぼれ
過去語り身勝手な我をはたと知る
回想ににじみ出てきてうずく悔い
視点変えしぶる記憶を書き換える
失敗を生きるかてとし今がある
想い出と連れ添い散歩陽だまり路
今日生きて証しを一つ積み上げる

健康寿命のまま78歳の誕生日を迎え得た記念にと、市民文芸誌に応募してみた。結果はやはり落選だった。川柳デビューの夢ははかなく消えた。「才能なし」と、早々に見切りをつけた。

その数日後の昼寝前だった。ベッド脇の書棚にある『聖書』が目に入った。抜き出して、無造作に開いた。次に取り組む何かを模索する気持ちが作用した、無意識の行動だったかもしれない。

そこには
「若者は幻を見、老人は夢を見る」(「使徒言行録」2章17節)
とあった。確かに、うとうとと浅い眠りにおちいりがちな後期高齢者は、夢を見る機会が多くなるようだ。懐かしい故郷の山河、遠い昔の生活や昨今の喜怒哀楽の1コマなどを。しかし、聖句の「老人は夢を見る」とは、そんなことを言っているのではないようだ。

「老人は幻を見、若者は夢を見る」
の読み違いかとも思ったが、そうではなかった。私は、何度かこの部分の前後を読み返してから、その意味することをあれこれ模索した。
どうも、自分の過去の体験に基づいて見る夢ではなく、神の霊=聖霊によって与えられる(神の恵みと祝福からの)夢を意味するようだ。この夢によって、高齢者は日々を希望に生き、天国への期待と憧れのもとに最期を迎える、ということらしい。

私が見ていた夢は、自分本位のものだったのか。

にんべん」に「夢」と書く「はかない」つかの間の夢だったのか。
だが、聖書の言葉は
「老いても、未来への希望の夢は与えられ、見続けられる。その夢を大切にしなさい」
とも解釈できよう。与えられる夢は見果ててこう。

(2017年3月31日公募ガイド社発行『翔年―岸本葉子さんとつくったエッセイ作品集』収載)

 

03. 趣味から出た趣味のようなもの

 

イスラエルの「歎きの壁」|Wikipediaより (↑CLICK!)「歎きの壁とは」にジャンプ(正倉一文 選)

   


聞かれて返答に困るものに「趣味」がある。

定義では「専門としてではなく楽しみとして愛好する事柄」とされる。カラオケ登山釣りなどが典型だろう
意味合いとしては、義務的な仕事ではなく余暇にする自由な楽しみ、自ら好んで行う面白く思うこと、小遣いと時間をつぎ込む遊び、となろうか。

私には趣味と言えるほどのものがない。だから、改まって「ご趣味は?」と聞かれると、「◯◯です」と明快に即答できるものがないので、困惑してしまう。
とはいうものの、「毎日、どうお過ごしですか」などと聞かれると、気楽になって、話を合わせるために「趣味のようなもの」をつい言ってしまう。

「毎日が日曜ですから、認知症防止のために駄文乱投をやっています。そのとき思いついたことの雑文を書いて、新聞などに投稿しています。掲載されないお粗末な文章の粗製乱造ですね」と。
相手は「エッセイの執筆ですか。スゴイですね!」とくるから、これ以上続けると、化けの皮が剥がれて恥をかくので、「あなたは何を?」などと話をそらす。

これは、ふと思い立って気軽に始めてからまだ2年も経っていないし、採用・掲載率が低いから、「趣味のようなもの」と言っていいのかどうかも迷っている。

この前の3年間ほどは、妻の同行者として行った2回(2011年3月と2014年3月)の聖地イスラエルを中心とした旅行の写真整理をひたすらやっていた。この時期に会った人には、「旅行と写真が趣味のクリスチャン」とされてしまっているだろう。凝りに凝って、主イエスの足跡をたどるA4判ファイル4冊、全320ページの解説・索引付き写真資料集を完成させた。

10年ほど前には、三浦綾子の全作品を、1冊も買わないで、公立図書館間相互貸借の制度も利用し、全部借り出して読むという目標を立て、約9か月かけて115作品を読破したこともあった。この時期に会った人には、「読書が趣味の三浦綾子ファン」とされてしまっているだろう。

自慢話になってしらけてしまいそうだから、例は2つにとどめるが、暇つぶしに常に何かをやってきた。オタクやマニアにはほど遠いし、道楽と言える豪快さもない。無秩序でいい加減な移り気もあり、お金は注ぎ込まない方なので、ほどほどに楽しんだらあっさりほかに鞍替くらがえする「奇人二十面相」である。

ポジティブには、夢中になって徹底してやるのが長所。打ち込むと、想定外の発見もあって、やりがいが生じてくる。奇妙な目標を立てて、執拗しつようにやり続けるところが、自分でも感心するところであり、笑っちゃうところでもある。
仕事を趣味化したり、遊びを実益化したりして、在職中は仕事と趣味の融合をひたすら楽しんだ。

最近、ある会合で近況を話そうとしたとき、司会者が「この人の趣味は、昼寝と散歩と貯金です」と紹介してくれた。多くの人は恵比須顔で微笑ほほえんでくれたが、極上の皮肉とわかった数人は爆笑し拍手喝采かっさいした。

一面を図星された当人の私は、頭をきながら、満面の笑みでピースのポーズを送った。

(2017年12月9日公募ガイド社発行『百花―公募ガイドエッセイ作品集』収載。一部加筆)

飯名碧水 提供

 

04. 蜂蜜のすご~い話

 

   


先日、友人と久々に会い、談笑しているうちに朝食のり方の話になった。

「7時過ぎに朝食を摂り、パンにたっぷり蜂蜜をぬって食べる。もう何十年も続けている習慣だ」
と私は答えた。果物のジャムも好きだが、ホテルなどに宿泊したときも、迷わず蜂蜜を選ぶ。
「どうして」と聞かれたが、
「身体によいと聞いて、ずっと続けているから」
と、平凡な理由しか述べられなかった。
「○○の1つ覚えかな」
と笑わせて照れた。

話は、毎年流行し、高齢者には命取りになりかねない風邪かぜの問題に移り、
「インフルエンザの予防注射は済ませた?」
と問われた。私は首を振った。そう言えば、近年、予防接種を受けた記憶がない。
また「どうして」と追及され、これにも答えようがないので、
「○○は風邪をひかないそうだから」
と開き直る。自分には無関係と思えるほど、風邪とは縁がなかった。
ただし、厳密には、軽く咳き込んだり、鼻水が出たり、少しのどが痛かったりしたことはあったから、
「半○○だとみえて、軽い風邪はひくけどね」
と修正した。友人は
「ズバリ、あなたが風邪をひかないのは蜂蜜を食べているからだ」
と断定した。

「自分も蜂蜜愛用者で、身体にものすごくいい」
と続ける。きっかけは、ある本を読んで効能の素晴らしさに驚かされ、「目からうろこ」だったという。高揚する「名医」の口上は次第に熱を帯び出した。上には上がいる。

無知の同志に極意を伝えるべく、熱心にひとさじで効く蜂蜜の万能性と魅力を語る。知識の豊富さに、私は「ホウ」「ヘー」と感心するばかり。蜂蜜を愛してやまない話を、かれこれ小1時間、熱弁で講釈を受けた。

天然の純粋蜂蜜による実践が安心・安全で、
「歯みがき後、寝る前のひとさじを口にすること」
が元気の秘訣だと、毎日の励行を説く。
最後の「蜂蜜目薬」の話には、すごさを通り越して怖さを覚えた。

そんなことで、久々の再会は蜜談義で盛り上がった。次の密会も約束した。平凡ながらも、ひとさじで幸せ。末広がりの80代になった。日々是好日。

(2018年2月12日、ウエブ掲載欄『蜂蜜エッセイ』第3回募集掲載、一部加筆)

 

05. 蜂蜜ローヤルゼリーの湯

 

   


月1回、「とめちゃん」と名づける父娘2人の会を開いている。
妻が長年、前に住んでいたマンションの奥様仲間と持つ昼食会「ライオンちゃん」に出かけるので、これに合わせて、留守番人が「われらも」と設けた日である。2人の名前の頭文字を1字ずつ採って「とめ」ちゃんと名づけた。

巡回する無料送迎バスで近くの温泉処、その名も「湯処・ほのか」に行って、ゆっくり入浴し、そこで昼食をとり、昼寝や読書をし、また温泉につかり、同じ送迎バスで帰ってくる、というささやかな極楽どきである。
大きな銭湯風の造りだが、天然温泉で各種風呂・岩盤浴処などの諸設備があり、「湯ったり、のんびり」くつろげるようになっている。

露天風呂の1つ「郷の湯」は、季節替わりで様々な湯めぐりを楽しめるようになっている。冬のある日に行った時、そこには「良質素材/蜂蜜ローヤルゼリーの湯」とあった。
「どれどれ」と浸かってみると、確かに湯は黄色、香りは蜂蜜、粘りはない。掲示には長文の説明と効能が述べられていた。

「食用だけに留まらず、古くから医薬品や漢方薬として生活に密接な蜂蜜。免疫力を高める効果があり、民間療法にも多用。ビタミンとミネラルをたっぷり含み、肌をしっとりと整える効果がある蜂蜜と、抗菌力があることで知られるプロポリスエキス、ローヤルゼリーを配合。フローラルな香りに包まれながら、お肌に天然の栄養補給を!」

「効果・効能…あせも・荒れ性・しっしん・冷え性・肩のこり・神経痛・腰痛・リウマチ・疲労回復・しもやけ・ひび・あかぎれ・にきび・うちみ・くじき・痔・産前産後の冷え症」

「お肌にみずみずしさと潤いを与え、ハリのあるなめらか肌へと導きます。優しい香りで気持ちが安らぐ、ビューティー&リラックスバスです!」

こんな言葉に誘われて、81歳の私は、ほのかにただよう甘~い蜂蜜の香りをかぎながら、いつもよりも長目に湯にひたった。

純朴な「とめちゃん」父娘は、帰路は身も心もツルツルになって、湯快な気分で雪のツルツル道に降り立った。

(2018年12月28日、ウエブ掲載欄『蜂蜜エッセイ』第3回募集掲載、一部加筆)

 

06. 縁は異なもの味なもの

 

今城養蜂場(北海道深川市)のアカシア蜂蜜

   


「縁は異なもの味なもの」という「ことわざ」がある。本来の意味に加えて、現代では「ご縁の不思議と面白さは男女の仲に限ったことではなく、いろいろな事柄についていえる」との趣旨でも使うことがあるようだ。

その意味での体験談を一つ。
実際の文は、第1編02収載の「蜂蜜エッセイ」で読んでいただくことにして省略するが、2017年の第1回募集で、私の作品『トッちゃんだけの蜂蜜飴』が掲載された。
同年9月、これが「はちみつ家のブログ」で紹介され、70数年も前の話に「そんなふうに蜂蜜飴を食べていたとは! 蜂蜜も今は高いので、ものすごく贅沢な食べ方ですね」との講評をいただいた。
2年後、『北海道新聞』の「読者の声」欄で「ぜいたく」のテーマ募集があったので、このことを書いて投稿したところ、2019年7月に掲載された。(掲載作品は省略)

ここで「ご縁の不思議さ」が起った。エッセイに登場した叔父おじ夫婦には、4人の子ども(つまり、いとこ)がいて、私より4歳上と1歳上の女性もいた。お2人は健在で、北海道内に住んでいて、同じ新聞を購読していた。偶然、共に私の投稿を見つけた。
早速「懐かしいね、会いたいね」との連絡をいただいた。長寿の叔父夫婦が安らかに昇天して以来ご無沙汰していて、ここ20年ほどの間、お2人とはお会いしていなかった。
全員が80歳を超えた3人は、子どもたちの調整の世話を得て、9月に入り再会し、談笑のひとときが実現した。家族を含めて、積もる話や子どものころの思い出話で大いに盛り上がった。

印象深く私の記憶に残った「トッちゃんだけ!にだよ」は、実は、気さくな叔母おばが子どもたち皆に蜂蜜水飴ふう飴をプレゼントする時に添えた魔法の甘い名セリフだったらしい。
作るほうの実体験もあるいとこの話では、蜂蜜を水飴ふうに練り固めるには火加減調節などの絶妙なコツがあり、逸品に仕上げる叔母の腕前はなかなかだったそうだ。
というわけで、高齢者3人を喜びの再会に導いた諺の中の「味なもの」とは「蜂蜜飴」だったのである。

これには続きがあり、別の「味なもの」が加わった。
上の文で「早速『懐かしいね、会いたいね』との連絡をいただいた。……」と書いたが、実際は世話役がいて、少し手間と時間を要した。
その過程を書いて、世話した私の娘が『北海道新聞』の女性エッセイ欄「いずみ」に投稿したところ、2019年9月下旬、「共同作戦」というタイトルで掲載された。

実は、お会いした「いとこ」の姉の方の息子さんが私の姓を手掛かりに会員制交流サイトで探し出し、私の娘のスマホに「もしかして……」と縁戚の確認を問い合わせてきたことから始まった再会作戦だった。
2人はいとこ同士の子であるから「またいとこ(はとこ、ふたいとこ)」という関係になる。その2人が何度も連絡をとり合って、敬老の日を前に老親たちの再会の願いを実現してくれた。子どもたちは仕事を持っていて、土曜日の午後しか都合がつかない中で連絡調整の世話をし、引き合わせに成功したのである。

心温まる興味深い話で、老親を持つ子ども同士が協力して実現した親孝行・叔母孝行の共同作戦は、希薄化している親戚関係を復活させる1つの参考例だとの判断から、投稿の翌日には、担当スタッフから「掲載したい」との連絡が入るほど高い評価を得た。

そして、もう1つ、大事な「味なもの」を書くのを忘れていたことにも気づいた。
それはいただいたお土産の中にあった。妹の方のいとこから、今住んでいる北海道深川市の特産蜂蜜、「これぞ!ふかがわ名物認定商品、今城養蜂場産」をいただいたのである。いとこや私の郷里を含むこの地方近郊の山野の花から採集された高級蜂蜜で、上品な甘さと美しい光沢が特長である。
特産蜂蜜の甘さと香りは、毎日、私に安らぎのひとときを持たせてくれ、生まれ故郷の風景や、亡き両親やきょうだい、親戚縁者の方々の在りし日の姿を、懐かしく思い出させてくれるであろう。長持ちするので、じっくり味わいたい。

本当に「縁は異なもの味なもの」である。

(2019年9月11日・同年9月16日、ウエブ掲載欄『蜂蜜エッセイ』第4回募集掲載、2本合作、一部加筆)