第2編 幸齢になってからの泡沫話

Vincent van Gogh (Dutch, 1853 – 1890), Farmhouse in Provence, 1888, oil on canvas

第2編 幸齢になってからの泡沫うたかた

――幸運にも齢を重ね、ふと思い浮かぶ、時折々の話を拾ってみました――

  

11. 1年を振り返る

11-1. 内面的な楽しみ(2023年)

北大構内に建つ「遠友学舎」。遠友夜学校の精神を受け継ぐ平成遠友夜学校(市民講座)の拠点  

 


約75年前の1949年(昭和24年)4月2日、北海道新聞は社説「遠友夜学校の精神」を載せた。戦後復興の具体化がようやく端緒に就いたころであった。
後年偶然、私はこの社説に再び出合い、その記事の「内面的な楽しみ」という言葉に心を動かされた。そして、後々の時代の大学生にも、市民などにも、そんな楽しみを味わってほしいとの願いをずっと抱き続けた。
その「内面的な楽しみ」とはどんなこと?、と思われる人も多いだろう。間違いなく理解していただくためには、この社説の著作権が既に消滅し、自由な引用が可能になっているので、論より証拠、社説そのものの関係部分を読んでもらうことが最善であろう。
以下がその部分の転載である。(一部の語には補足も加えた)
「北海道民生部では児童保護の普及徹底を期するために、ひろく民間篤志家の協力を得るよう計画を立てている。この計画のシンは児童相談所などの児童施設に対して学生の関心を吸い寄せようということにある。つまりその方面における学生のボランティア運動を起こそうというのである。
ことに札幌では、故新渡戸稲造博士の遠友夜学校の敷地が児童相談所建設用地として提供されたのを機会に、遠友夜学校の精神や実践を再現したいと企図しているようだ。(この用地に建設された北海道中央児童相談所に、後年、私は勤務した時期があった)
児童の心身を健康に育て、その生活を保障し愛護するのは国民一般に課せられた義務である。明るい社会を建設するためにはこのことが進んで守られなければならない。だれでも知っているはずのことだが、実際にはまだまだ理解されておらない。率直にいって、児童福祉法が施行されてからまる1年になる今日やっと子供を保護する機関の設置に糸口がついたという程度である。
まだまだ不十分な施設、機関で児童保護の目的を達しようというのはもちろん容易な業ではない。ことに貧乏のどん底から立ちあがろうとする日本経済の場合、児童施設だけを整備するというわけにもゆくまい。またたとえ整備が十分にそろったにしても、往々半身不随に陥る官製のやり方では、これに血を通わせて活発な脈動を与えることはできない。だから、民間篤志家、ことに学生の発意による協力が求められるならば、児童保護の前途に光明が点り得るといえよう。
遠友夜学校はかつてサムライ部落と称された札幌市豊平のスラムのまん中にあった。戦時中逓信局倉庫として使用されていたが、昨年火災のために建物は跡形もない。
遠友夜学校は1894年(明治27年)に故新渡戸博士によって開設された。当時、アメリカに遊学中の博士にとって、社会施設の発達とその施設を支えている人たちの『人類愛の精神』とを学んだことは、最大の収穫であった。日本の貧しい人たちが惨めな生活のうちに、顧る人も少く、放置されているのと比較して、あたたかい愛の手を差し伸べようとの働きがいきいきと行われているアメリカの社会は、博士にとって大きな感激であった。博士は博士自らの手でこれを実践した。
札幌独立キリスト教会付属の豊平日曜学校が経営困難で閉鎖したとき、博士はこれを貧困家庭の慰問ならびにその児童、晩学者に普通教育を与えるために復活し、遠友夜学校が開かれた。日曜学校の教師と札幌農学校生徒の有志が博士の協力者であった。
家庭訪問による病者の看護、不具者の保護、幼児の保育などが慰問の仕事であり、教育事業としては毎夜、普通教育のほか看護法、茶道、裁縫、編物、唱歌などがとりあげられたが、数年の後、夜学校だけの事業を進めることになった。この学校は新渡戸博士の精神をうけ継いだ若い札幌農学校の学生たちによって、バトンをうけとるようにつぎからつぎへと継承され『正義を愛する心』が大きく成長していった。『薄暗い燈火にじゅんじゅんと道を説かれ、愛を説かれた』博士の姿が、そのまま学生の心のなかに生きていたのである。
店員、職工、行商、職人、日雇その他生徒は昼間いろいろの労働に従事している。その疲れのために夜間授業は少なからぬ困難をともなった。だが、若いボランティアの情熱は着々それを克服していったし、学生たちが昼間働く生徒たちにふしだらな姿を街頭でみられないように身をつつしむ習慣をつくりあげるよう努めることがよい刺激になったと、当時教師の1人であった人が語っている。
学生の自発意による行為には常に『内面的な楽しみ』を伴っているものである。ただ、功利的な見方や皮相の見解だけでは容易にその楽しさを理解されるものではない。ことにいままでの官製方式はとかく若い人の熱情の芽をさえも摘みとりがちである。だから、自由な素地に伸び伸びと育てあげ得るだけの度量がなければならない。」
長々と引用したが、「内面的な楽しみ」の真意が伝わったであろうか。
この社説の以降、実際にいろいろな形で遠友夜学校の精神を伝承する活動・運動が現れたのだが、今年、また1つ画期的なものが誕生する年がくる、と思った。というのも、2023年(令和5年)は、春には、新渡戸記念公園の一角に「新渡戸稲造と遠友夜学校の記念館」の建設が、秋には、現代の遠友夜学校の1つもといえる実践活動を取り上げているという新制作映画『新渡戸の夢』の公開が予定されていたからである。
私もこの機運を盛り上げようと、資料年譜『遠友夜学校の遺産はどう伝承されたか―新渡戸稲造の夢を未来へつなぐ年譜―』の発刊に向けて資料・情報集めに取りかかった。
結果はどうであったかと言えば、残念ながら不本意なものに終わった。記念館の建設も映画の公開も延期になったのである。ただし、資料年譜の発刊は実現した。それぞれの時点で、初版は5月に、増改版(第2版)は10月に一応の区切りをつけて電子出版した。
結局、大きな事業は先延ばしになった。それなら資料年譜も付き合って、一段と充実させた第3版を発刊しようと、さらなる夢を膨らませたのである。
(2023年12月31日、個人仮想作品集『無意根山を望む窓』収録)


(目次発生のためのダミーです)